尼崎市は市政100年。

しかし生嶋神社がある旧「立花村は100年前には、尼崎市には編入されていなかった。

それがなにゆえ、尼崎の祖神なのか?

主祭神 生国魂大神(いくくにたまのおおかみ)

例祭日 10月14日

鎮座地 栗山町2丁目24-33(TEL 06-6429-2830)

>>> 生島神社ホームページ(外部リンク)

≪お社の説明・御由緒≫

J市バス立花支所前で下車、東へすぐのところ。阪急武庫之荘駅またはJR立花駅から歩いても15分ほど。
創祀は仁徳天皇の御代と伝えられ、『三代実録』、『摂津志』にその由来が記されている。明治維新以前は、生島明神、生島弁財天と呼ばれたが、明治六年生島神社と改められた。その後、上ノ島須佐男神社、大西熊野神社、三反田八幡神社を合祀して現在に至っている。末社に生島弁財天社、生島稲荷社、生島大師堂がある。 現在の社殿は昭和51年に新造されたもの。平成7年1月17日の阪神淡路大震災により鳥居・手水舎・他石造物倒壊、社務所半壊するも、平成9年12月に全て修復を終える。

 

尼崎66社案内からだけでは、分からない。

 

本殿両翼に「庭燎」

これもまた分からなかった。

 

ウィキペディア:

 

庭燎(にわび)は、宮中神楽の1曲である。

 

「楽家録」によれば、その作法は、まず人長が進んで軾の前に行って3拍子を踏んで右足で軾を蹴って本方に立つ。ついでの所作人が進んで軾に着き庭燎を奏して本方の座に着く。ついで人長が軾の前に行き神殿に向いて右足で軾を蹴って末方に着く。ついで篳篥が進んで軾に着き、庭燎を奏して末方の座に着く。ついで人長が本方に行く。ついで和琴が進んで弾じるが、これははじめ出納が和琴を取って所作人の前に置き、所作人が進んで軾に着き庭燎を奏して本方に着く。ついで人長が軾の前に行き、神殿に向かって立つ。ついで笛と篳篥が同音に奏する。ついで人長が本方に立つと、本歌方が進んで庭燎を奏し、本方に着く。ついで人長が末方に立つと、末の歌方が進んで庭燎を奏して末方に着く。

つまりはじめ人長作法において笛、篳篥、和琴および本末の歌人に庭燎を奏させて試み、着席を許す。ついで以上の管弦が寄り合って試みに合奏し、歌人が庭燎を歌う。これをよりあいという。つまり人長作法、庭燎、よりあい、という順番で、これをいわば序曲として、阿知女作法を経て、採物に入る。

 

 

古今和歌集神遊の歌の中の採物の歌である「みやまには霧ふるらし外山なる真柝の葛色づきにけり」を歌う。かつてはこの全歌を歌ったから、それを庭燎の「諸歌」(もろうた)と称えたが、近代は上句のみを歌い、下句は歌わない。また、採物のほうでは葛の歌は歌わない。

歌の伴奏は和琴だけであり、すががきを弾く。

 

 

神楽は夜間に行なわれるから庭燎を焚く必要があった。古くは儀式だけで歌は無かったであろうといい、あるいは楽人の試奏に音取が奏されるていどであったろうという。

この歌は楽人の腕前を見るという意味があった。つまり火をたきつける所作について歌うだけでなく試奏の意味があった。

 

ながながしい解説と、提灯の「庭燎」の文字の関係は?

にわびと読む。要するに「照明」の意味なのであろう。

 

 三省堂大辞林(ネット)では、

 

昔,宮中の庭で,夜中参内の諸臣のために焚いたかがり火。にわび。

 

と説明されている。

 

季語辞典(ネット)では、

 

神楽のとき庭でたくかがり火

で冬の季語だとか。

ホトトギスの歳時記の索引には登場しない。

「俳諧歳時記」には、冬の季語「神楽」の付随季語(関連季語)扱いになっていた。

ただし例句はなべて「神楽」祭などを利用、庭燎を使うものはなかった。

 

青ざしや稲荷の庭火木綿(ゆふ)かつら 幽山 選集「板東太郎」
 
しんしんと梅散かゝる庭火哉 荷兮
 
庭燎にちらつく雪や初神楽 上野巨水
 
鞠始ありゃおうと継ぎ庭燎かな 松田曼莉

巨水(知らない人)の句では、「ていりょう」

曼莉の句では「にわび」と読ませているよう。

 

同じように、塚口神社の正面入り口の石柱には、「宗源」と大書されている。

これもかねがね調べてみようと思っていたので、ついでに検索。

 

「万法の源の意」

 

という説明をみつけたが、なぜ神社の正面に掲げられるのか、謂われは分からないまま刻限。