あわれ!白ゴーヤ

9つ作った千日紅のプランターの内7つを、門の外に並べた。

一族の系譜の解明に夢中になったのは、1995年の阪神淡路震災の後である。

 家が崩れて住めなくなった従兄の提案であった。従兄とはいえ、祖父の長男の息子(長男ではなかったが)であり、私は、祖父母が生んだ7人目の末っ子の子供だったので、年齢はかなり離れている。(15も歳が離れていると従兄弟同士でも、年少者から「チャン」付けでは呼びにくい。こちらも結構な年齢になってからは「さん」付けで呼んでいた。相手の方からは、ず~と「ショウちゃん」である。

すでに車の運転を止めていた従兄と一緒に何度か美作詣を繰り返した。
 祖父の家(私にとっての「実家」である)は、従兄の兄も60数歳の若さで亡くなり、その兄の子(次男である。長男は大阪に本社がある会社に勤めていて、家の継承を断わったようである)が田地を継承していた。

 ところで、祖父は我が実家へ養子として入ってきた。その3代前に本家から分家した家に継承する者がいなくなったからである。養子に入って以後、他家から嫁さんを貰ったので、この分家(=私にとっては実家)は祖父の代から再出発したことになる。
 
 

 では現在本家とされる家に「現祖」さんは引っ越してきたか、あるいは住まいは離れているが、そこに田地を持っていて、耕作等の便宜を考えてその地に家を建てたのかがよく分からない。


 我が分家は「現祖」さんから数えて6代目の本家当主(宗兵衛さんという)の息子の一人(利右衛門さん)の分家から始まるので、現在の代はわずかに8代目である。こんな家に系図が残っている筈がない。では私が利用している系図は現在の本家に所蔵されているものかというとそうではない。これがまたやっかいなところである。

「前陣屋」という屋号を持つ本家(この地区は元禄期以後幕府領であり、津山藩ではなく、他の大名の預所になっていて代官がいて陣屋(出張事務所)があり、本家は陣屋であったかもしれない。)は、縁者間の言い回しによれば、明治期に林業関係事業に手を出し倒産して夜逃げ(同然ということだろう)をしたことになっている。

 現在、周辺に住む同姓者たちが本家と見なしているのは、
夜逃げした本家初代の兄にあたる(本家が弟によって継がれていたのである)人物から始まる家(「大前」という屋号)だが、もしも系図をもっていたとしてもそれは弟の家に継承されたことになる。夜逃げの荷物の中に入っていたかは不明であるが、どうも入っていなかったようである。

 近祖さんの死亡以後、落ちぶれて諸国遍歴していたかもしれない子孫でも、近祖さん以来の口コミは残ったようであるが、どの程度まで文書化されていたかどうかは分からないが、まったく文書が残っていないわけでもないよう。

 そこでまたやっかいなのは、現祖さんが2人いたかもしれないということである。同姓さんは現在の本家周辺に10数家あるが、同じように(かつての)隣の村にも、同姓さんが10数家あり、この地区にも本家が存在する(屋号:「本屋」(もとや))。

 私の地区では、現祖さんの息子が隣村へ分家したことになっているが、隣村では現祖さんの弟が同じ時期に二つの村へ新居を構えたことになっている。