祖先の呼称をいろいろ考えている。
ショウちゃんの一族が、美作の現在地(私の本籍地)へ姿を現すのは1689年(元禄2年)である。
そこへ引っ越ししてやってきた人物を「現祖」と呼んでみる。
余り聞いたことのない言葉であるが、いろいろの「祖」がいるので、やむを得ず「造語」してみた。
現祖さんが何処から引っ越してきたかは分かっている。江戸時代の尺度で言い表すと、3つか4つ西側の村からやってきた。
 我が家系譜の最大の弱点は、現祖さんがもと住んでいた村での動向、あるいはその村に住み込むようになった事情がまったく分からないのである。

 ともかくうろうろしながら最後に現祖さんの祖先がその村に落ち付くことになった7代の初代は、「政行」さんである。
この人を「近祖」と呼びたい。
 近祖から現祖までの7代の住所はかなり変化しているようであり、「播州浪人」と呼ばれたこともあるので、播州(兵庫県姫路周辺)に住んでいたことがあるかも。もともと1族はこの辺りに発祥しているようである・

 この人(近祖 政行さん)は、前後の世代で一番活躍した人なのであろう。
利用できる系図にはいろいろ書き込みがなされている。

近祖は16世紀の人である。
16世紀の最後の年が1600年。近祖は1600年9月18日に、54歳で亡くなっている。9月18日はもちろん、旧暦である。54歳も当然ながら数え年である。
その次、初めてショウちゃん一族の現在の姓を名乗った人を「源祖」と呼ぼう。この人は14世紀の人である。

 その時代以前は、姓の変更は自由自在時代であったよう。
この源祖さんを遡ると、系図はどこかで入手したものを継ぎ足したのであろうが、範景(のりかげ)、為助という兄弟に至る。12世紀のことであり、記録性はかなりあやしくなる。

 範景さんは播州赤松村に腰を据えて赤松姓を名乗る。
一方兄の為助は宇野姓を名乗る。
 この宇野為助さんが、「遠祖」である。

この範景(のりかげ)、為助のご先祖さんはとなると、播州に遠流となった(追放処分)親王の名前が登場する。元祖が天皇になる系図がここに成立することになる。
 流されてきた高貴な人物へ、娘を差し出して、系図拝借ないし、書きなおしはよくあることである。
 だから著名な系図学者は、赤松氏について、その祖は秦氏ではないかと「推測」している。
 その出発点が確定できれば、この人こそ、わが1族の「元祖」である。

 反逆親王ないし体制派に追い出された親王を祖とすれば、親王の親は天皇だから、我が一族は清和源氏赤松一族ということになる。天皇の元祖は神武さんで、この人は朝鮮半島系の人である。日本に来た秦氏も朝鮮半島からやってくる。

 朝鮮半島に来るまでは、中国にいた。
もちろん秦の始皇帝の直系ではない。直系は1人を除いて抹殺されるのが当時の慣わしである。

赤松姓でもっとも有名なのは赤松円心(1279~1350)である。赤松の系図は、赤松氏が織田・豊臣・徳川の時代以前に滅亡(嘉吉の乱 京都の赤松邸へ足利義教将軍を招き暗殺)
したため、かなり混乱している。どれが最も確かかさえ判定できないほどである。原典転写の暇がなく、メモや口コミによって補てんしたからであろう。

 現祖⇒近祖⇒源祖⇒遠祖⇒元祖と辿っていけば、
日本人の多くは、朝鮮半島住民に到達する。


 ゴーヤにもペチュニアにも夏バテの気配である。

一つは色が変りかけている・

蒟蒻は溌剌としている

↓夜11時過ぎに撮影。鹿も熊も出ないので安全。