絵を見に行ってきた。渋谷まで。
私はある方の絵がとても好きで、これまで3回ほど展覧会に足を運んだ。その度に私は、次に逢える機会まで呼吸を続けようと決意する。



『孤独』
この言葉の意味を、私はそれぞれの踏み入ることのできない領域と解釈している。ひとりぼっちであること、と同時に、私は『ひとりぼっちにならざるを得なかった』ほどに譲れない、守りたい自分のことをそう呼ぶのだと思う。


「孤独じゃないよ」
この言葉はとても暴力的だ。
孤独に苦しむ人を肯定しているように見えて、どこかで「孤独は辛いだろうけど、あなたは孤独じゃないからね」という様々な否定を孕んでいる。
孤独は誰もが抱えている。その心の奥深くの柔らかい部分を、共有も理解もしようとすることは無謀であり、できると思うことは傲慢以外の何物でもない。そして、それを否定すること、また肯定することも同じだと私は思う。

絵は、その全てに口を開かない。
芸術と向き合うとき、窒息しそうになりながらなんとか目を合わせる。
それでも勇気を出してもう一歩近づいたとき、急に呼吸が楽にできるようになった。
彼の絵は、孤独を近づけて二人にするのではなく、孤独が孤独のまま寄り添ってくれるような温かさを感じさせた。
絵はとても繊細で、彼の見ているものをそのまま私に見せてくれているように思う。きっと描かれているものは彼のすごく柔らかい部分の景色で、それぞれがとても美しくて尊い。

絵を見たとき、私は孤独の美しさを提示されたことに衝撃を受けた。
その絵は自身に描かれている孤独を以て、その美しさを私に気づかせた。そしてそれがこの絵だけではなく、全ての孤独に向いていることも。
彼の絵はきっと、自分の孤独だけが尊ばれることを許していない。
「貴方の孤独は綺麗だね、私のは汚いけど」
私がそんな言葉を吐いても、絵は何も言わないだろう。
ただ私は、その絵を通して、初めて歪んだその考えが歪んだものであることを認識できたのだ。

そして、私はその手段が絵であったことを本当に有り難く思っている。"そこにある"という示し方でなければ、私の解釈はきっともっと歪んでいた。白い部屋に静かに佇むその絵たちに、少しづつ近づいて行くあの時間が、私の孤独に新たな解釈を与えてくれた。


本来私はこのような書き方は好きではない。
真実は作者の中にしか存在しないし、いくら作品を見た人間が言葉を並べてもそれは独りよがりなエゴの塊だと思う。
このブログは私なりのラブレターだ。
彼の絵が教えてくれたことが正しかったと言うために、私は彼が綺麗だと言ってくれた文章という手段で返したい。


以前私はこんなツイートをしたことがある。
『自分の気持ちを伝えるために絵、歌、詩、文、曲を使ってる人と、本当に好きでやってる人は何か違うと思う
どちらが良いとかではなくてね』

絵を描いてくださって有難うございます。
あなたの絵が、本当に大好きです。

2019.08.04 @ecota0108