昨日、記事アップするも、一つのいいね!もつかない事件。

 

事件ちゃうか、てへ。

 

おかしいなあ、休日みんな忙しいのかな。

と思いつつ、今朝アクセスを見たら、前日よりも上がっている。

 

なんだ、いいね!がないだけか・・・。

とちょっとホッとしたりして照れ

 

 

最近は「体験」というキーワードが何度もやってくる。

 

「体験」は

「よーし、じゃあやってみよう!」

っていう能動的な自力的な感じの「体験」ばかりじゃなく、

たとえば、

「失敗するのが怖い」

と思っていることでさえ、

「失敗するのが怖いという不安と恐怖」を体験中、

ということも含まれますよ。

 

自分で選んではいない事さえも「体験」とよぶことが出来ますよね。

 

だから、みんな今何かを体験中。

 

「役に立っていない、と思う事」を体験中だったり、

「愛してもらっていない悲しさ」を体験中だったりします。

 

 

昨日の私なら、

「あれ?いいね!が付かないゾ、という孤独」を体験していました。

 

よく読まれるブログが良くて、

読まれなくて読者も少なくて、いいね!が少ないブログは悪い、と思っているのなら、

そのいい・悪いと思うとおりの体験をするだけです。

 

 

私たちはもともと根本では大いなる力のもと、みんなと繋がっています。

私たちは「わたし」を生きているのではなく、

「大いなるいのち」が「わたし」を生きています。

 

だから、

安心して開いていれば、それだけでみんなと繋がっているということです。

 

「あれ?いいね!が付かないぞ・・」

ということが、悪いこと、イヤなことだと判断しているうちは、

孤独と不安を増幅させて、大いなるいのちから分離しているかのような「錯覚」「夢」を見てしまいます。

 

 

昨日私は

「ああ、夢を見ているんだなあ」

と思いました。

「いいね!が付かないことをイヤなことだと思っているんだなあ」

と。

 

いいことは大歓迎で受け入れる。

でも悪いことは絶対受け取らない。

という損得勘定での受け入れ態勢は、結局は全部取りこぼすんですね。

 

 

「いいことも体験中、悪いことも体験中」なだけで、

いい・悪いさえも幻想で、

どちらであっても「わたし」という存在は揺らがない。

 

「いいことも、悪いことも全部受けとります。」

と私は決めているんです。

 

だから

「ああ、夢を見ているだけだ」

と気づいたら終わります。

 

そうすると、

「見てくれている人もいた!」

という充足が本当はあったことに気が付くんです。

 

 

 

今、みんな何かを絶賛体験中。

 

 

あなたも安心してその体験を感じてみてね。

みんなが体験中だから、ひとりじゃないよ。

 

 

その体験にもう飽きたなら、

「これは夢なんじゃないのかな」

と見破ってみてください。

 

 

そしたら、夢から醒めて、その体験にまとわりついていたあなたの解釈が変わります。

 

どちらかだけを受け入れようとしてなかったかな?

どちらか片方を頑なに拒否してなかったかな?

 

いいこと、悪いこと、という解釈こそ、あなたに制限をかけている元凶です。

「実はたくさんある」

という充足の事実にすぐ気が付きますよ。

 

 

 

 

そうは言っても「いいね!」してもらえると、やっぱうれしいドキドキドキドキと喜びますからお願いしますドキドキてへおねがいおねがい