今日は地元の小学校・幼稚園・保育園の子どもたちが集まって歌を歌ったりするクリスマスコンサートでした。

 

うちの小学校では末っ子ちゃんの学年の末っ子ちゃんのクラスが担当となって歌を披露するプログラムになっていました。

 

で、うちの子、

「めんどくさいから行かない。」

と言うわけですよ。

 

で、あたしも

「あ、そう」

で終わるんですね。

 

これ自体でもなかなかだと思うんです。

 

強制参加ではないけど、参加してくださいね、と何度もお手紙をもらっているわけですし、

「フツーは行くでしょ」

と思いません?

 

“やりたくないことはやらない”

を実践している私は子どもにも強制することはあんまりありません。

 

でも、末っ子ちゃんはそんな私でさえびっくりするようなことを言うんです。

 

「見に行こうかなニヤリ

って。

 

・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・。

 

 

み、

み、

見に行くの?ポーンポーンポーンポーンポーン

 

出ないのに?

みんなは出てるのに?

絶対バレるよ?

みんなに見つかるよ?

 

 

驚くでしょ。

いや、おどろくわ。

 

 

まさか、「出ないのに見に行く」なんて。

そんな選択肢、私にはありませんでした。

 

末っ子ちゃんは

「出ないけど、見に行く」

 

のに、じゃなく、けど。

 

 

 

見に行ったら、

「なんで見てるねん。」

「なんで来ないねん。」

ってみんなに言われるでしょうよ。

 

末っ子ちゃんを見て、

「それアリ?」

「オレもそれが良かったわ。」

「めんどくさいのにオレはちゃんと参加してんねんぞ!」

って怒る子もいるでしょうよ。

 

まあ、確かにね、

「先生の言うことは絶対」

「先生が言ったから行かなくちゃ」

「みんなが行くから行くべきだ」

とかっていうのは、勝手に思い込んでいることだよね。

 

その思い込みは、

みんなが抱える正しさは、

誰かの正しさで、

 

それぞれ自分が信じる正しさの「せかい」を生きているだけだよね。

 

私も、

「出ないなら見にも行かない」

それが普通、それが正しい、という「せかい」に生きていた。

無意識にそういうものだと思っていた。

 

末っ子ちゃんはそんな私の正しささえも軽々と超えていく。

 

 

私は感心して気づく。

 

普遍的な正しさなどなく、みんな自分の正しさを信じて生きているだけだ。

誰かの正しさに触れると、

新しい視点と、自分の正しさの崩壊が起きる。

 

 

誰かの行動や、

誰かの考え方に、

イライラしたり、モヤモヤしたり、

腹が立ったりする時は、

自分が自分の信じている「正しさ」に固執するあまり、苦しんでいるだけだ、って。

 

 

 

 

そっか。

なるほど。

 

出ないけど、

見に行くっていうのも、アリなんだねえ。

な~るほど・・。

 

 

末っ子ちゃんのこの自由さは、

「正しさ」で凝り固まって生きづらい人の新しい視点と風を起こす、といつも思うんだ。

 

だから、

私の正しさや社会の常識でつぶしてはいけない、って

再認識する。

 

これは私の使命の一つだと思っているんです。

 

 

そして、末っ子ちゃんは自由に存在するだけで、みんなの役に立っている。

「存在するだけで役に立つ」

ってこういう事なんですよねドキドキ