自然体に生きている人の言葉はハッとさせられますね。

私も随分と自然体に生きられるようになりました。

 

何かになろうとすることも、

何かを目指すことも、

なくなってきたなー、と感じます。

 

‟私が”生きているのではなく

‟いのち”として私を全うする。

というのが、なんとなく、なんとなくわかる気がしたからです。

 

 

みんなも同じで、

‟誰か”が‟何とかしよう”として生きているのではなく、

‟いのち”が‟誰かが何とかしようとしている”のを体験しているだけです。

 

 

そう思うと、

誰かを助けることも、

誰かをコントロールすることも、

誰かを救おうとすることも、

必要ないんだな、ってわかります。

 

だから今は子どものことも、他の人のこともとても静観してみていられます。

以前は、

「私が何とかしてあげなくちゃ」

「こんなに心理の勉強しているんだから、この知識を役立てなくちゃ」

って思いが強かったんですけどね。

 

 

問題は「学び」だって言うじゃないですか?

 

これは何の学びだろう?

何を私に教えてくれようとしているんだろう?

って。

 

私もよくそんなこと考えて、

これはこれの投影だ、

って分析していました。

 

 

でも、「問題」も「学び」もないんだ、と思います。

 

 

ただ、何かが起こり、

感情が揺れて、

ありのままに湧く感情をそのまま感じて。

その喜怒哀楽さえも良い悪いはなく、ただ同じように湧いてきて、

ありのままに受け入れて。

 

ただそれだけで。

「学び」とか考えなくてもよくて。

 

イヤなことがあっても、

腹立つことがあっても、

それでも生きてるじゃん?

 

イヤな記憶はだんだん薄れて、その後楽しいこともあったりして、

 

後になってふと、「あれはこういう学びだった」と気づく。

ただそれだけです。

「学び」という言葉自体も方便です。

「問題」があるのではなく、ましてや「問題にいい悪い」もなく、「学び」も「答え」もすべて幻想です。

 

 

なんだかとっても怪しくなってきましたね。

私も書きながら、そう思いました。

 

そう書く私でも、それでも何かが起こればジタバタします。

子どもが不登校になれば、悲しみに沈みました。

子どもが部屋を片付けない、

少しも空気を読まない、

なんてことにも、激怒します。

 

「問題」なんてないとわかっていても感情は湧くから。

 

 

だから、感情が高ぶって、荒れ狂いまくっている渦中にいる時は、

ただそのまま、

う゛ーーーーー。

とか

あ゛ーーーー。

とか言いながらのたうちます。

しんどいけど。

 

役に立つ、とか

誰かを助ける、とか考えなくていいから、

湧いてくる喜怒哀楽の自分の感情にだけ、責任を持ってしっかり感じましょうね。

 

 

生きるってそれがすべて。