私は幼いころからずっと、自由に生きたいと思ってました。

言うとおりにするのはイヤだ、

自分でやりたい、

がすごく強くて。

 

だから、コントロールされることに対してものすごく敏感に反応します。

今でもです。

 

誰かがコントロールしてくる、も幻想で、

押し付けられるのも、

支配されるのも、すべて幻想だった、

私はもともと自由だった、とわかったのだけど、

 

コントロールしようとすることは「悪」

という観念はとても根強く残っていました。

 

 

 

週末に小4末っ子の男の担任の先生が書いた学級だよりを読んで、モヤモヤしました。

 

「1才の自分の子どもを褒めたら、ごみを捨てたり、本を取ってくれるようになりました。褒めるってすごい!学校でも褒める環境を作って、褒めようと思います!」

と書いてありました。

 

 

褒めることで子どもたちをコントロールしてやるぜ、グッヘッヘ

と言ったわけじゃないけど、そんな感じがして。

 

 

 

コントロールなんてできるわけがないのに。

 

 

まだまだ私は他人からコントロールされることを怖い、と思っているのか、

敏感に反応しちゃいました。

 

 

 

「コントロール」

という言葉や行為そのものにはいいも悪いもない、ただ目の前で起きている行動です。

 

でも、私は

コントロールされてたまるもんか、

絶対、言う事なんて聞いてやるもんか、

という思いが強すぎたために、

「コントロール」=「悪」

だと強く認識しすぎて、偏っていたことに気が付いたんです。

 

 

コントロールをしようとして、うまくいった気がしても、そんなのただの勘違い。

そもそも出来ないことをやろうとしているんだから、ある意味無意味なんだけど、エゴはコントロールしたがるじゃん?

 

コントロールしたいエゴと、

コントロールなんてされてたまるもんか、というエゴが目の前でバチバチに戦っているのを見ている視点に立てたんです。

そこには何にもなく、ただ悠然と流れていく流れだけがあるんだなあ、という感じがしました。

 

 

「コントロール」=「悪」

じゃない。

もともとコントロールなんてなくて、ただ流れがあるだけ。

 

いや、流れにもうすでにコントロールされている。

その流れに沿っていることはコントロールできた、と認識するだろうし、

流れに逆らうことはコントロールできなかった、と勘違いするだろう。

 

そう思うと、「コントロール」=「無駄」

になるよね。

 

 

コントロールしようもムダだし、

コントロールされるもんか、もムダ。

 

 

大きな流れの中で勝手に踊っていたんだな、チクショー騙された!って感じです。

リアリティー抜群だったわ。

 

 

長い長い「テーマ:コントロール」との葛藤の旅はもうこの辺で終わりにしたい。と心から思います。次行こうぜ