『「未曽有の体験」には、「同じ未曽有の体験」がないといけない』か | Core Infinity Views

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『原点』を一緒に創るコーチ 若狭 喜弘 の視点を記します。

> 大津波や原発事故をもし「未曽有の出来事」と言うなら、それに対しては「未曽有の物言い」が用意されなければならないはずだ。
> 畠山直哉
 (折々のことば 選・鷲田清一)


「物言い」とは、「ものの言い方」「できごとをことばにする表現法」のこと。

ことば、そのことばのもとの人の感覚や感性にはスケールがある。
自分ひとりの目が届く範囲、
自分の手が届く前後左右上下の範囲、
親、兄弟の家族の範囲、
親戚まで含めた範囲、
学校の仲の良い友達の範囲、
学区の範囲、
都道府県を何等分かした範囲、
都道府県、日本、アジア、大陸、世界・・・
のことばがある。
新しく関係が築かれたとき、
もしくは、その範囲の規模で壊れた時、
ことばは新しく創り出し、共有できないと、
情報も感情も共有できない。

例えば、自分の家族のことを考えている人とアジア全体のことを考えている人があるテーマについて話をしても、話は通じない。
スケールが違うことを考えている人が話をしても、
お互いのことを想いやって会話をしても、話は通じない。

相手の話すことば・・・単語はわかっても、話は通じない。
会話を成立させるには、
未曽有の出来事には未曽有の物言いが必要だ。

でもおそらく、誰も用意してくれない。

必要がある人が、
勇気をもって、
その時に生まれてきたことばで表現していくしかない。

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『「未曽有の体験」には、「同じ未曽有の体験」がないといけない』
と書こうかと思ったが、

結婚している人―結婚していない人
子供がいる人―子供がいない人
子供が一人いる人―子供が二人いる人

など、「経験の条件が同じでないと、私を伝えられない」
と拒絶する人がいる。

でも、それは不可能。
同じ体験がなくても、伝えることは可能。
「未曽有の体験」がなくても、伝えることは可能。受け取ることは可能。

違いに注目するのではなく、
「人として」
の生命としての原初的な共通点があれば大丈夫と信じて伝えていくしかない。