こんにちは
あなたは、
日本の馬のルーツを
ご存知ですか?
せっかくなので、
是非一緒に学んでいきましょう。
最古の馬...
古い馬...古い時代...
わたし的には
岩宿時代や縄文時代には、
馬というイメージはないかな?
弥生時代だと...
卑弥呼さまが有名な
邪“馬”台国
が、思い浮かぶでしょうか?
国名にわざわざ
『馬』と付いているのだから
などと想像してしまうのですが...
実はこれ、
当時、三國時代だった
(いわゆる三國志の時代)
支那大陸にあった国のひとつである
魏の国の記述であり、
蔑称 みたいです。
三國時代の魏は、ヒミコさまが
魏の年号・景初3(西暦239)年などに
遣いを送ったことでも有名です。
邪馬台の『馬』の字は
ただの当て字であり、
邪馬「台」「臺」「壹」「壱」...
「台」の当て字も、
こんなに記述が違うのだとか。
おそらく、向こうは
発音に適当な字を当てただけでしょう。
自称『世界の中央の華』の
大国『魏』からすれば、
海の向こうの“矮小国”に興味などない
といったところなのでしょうか?
そもそも、
邪馬台国で一番偉いとされる
女王さまに、
“卑”しいなんて
自分では付けませんね...
『ヒミコ』も
女王さま個人の名前
というよりは、
官職名としての
日巫女、姫巫女などの
祭祀関係の呼び名や、
尊称としての
皇女、姫御子などを表す発音
だったのではないかと
思われます。
国名は
大和国(大倭)当時は山門?
だったのだろうと
個人的に思っています。
加えて、当時(3世紀ごろ)の日本には
漢字や、平仮名どころか...
文字さえもなかった
とされています。
(諸説あり)
邪馬台国の発音についても
諸説があり、
ヤマタイ、ヤマト、ヤマイチ
などが代表的ですが、
後に、天皇や大王
が治める国の『ヤマト』と
ヤマ+Tの発音で被る確率を
少し考えても、
ヤマタイコク = ヤマトノクニ
としたほうが、自然で無理がない考えだと
わたしは思います。
ちなみに、三國志の中の
通称『魏志 倭人伝』には
≪邪馬台国に「馬なし」≫
という記述があります。
本当に魏の人が調べていたのか?
実際に当時の日本列島には
馬が全くいなかったのか?
なんともわかりかねますが、
少なくとも、
表向きにはまだ
馬がいなかった(と思われる)国に、
“邪な馬”という文字を当てたのは
如何にもな性格をしていますよねぇ...。
さすがは中華思想!華夷秩序🤣
嫌いじゃないですよ笑
三國志を著した
蜀漢の国出身の官僚・陳寿が
邪馬台や卑弥呼などの字を
当てたのでしょうかね?
それとも、
魏の時代に当てた字を踏襲
したのでしょうか...
どちらにしても、
西晋も魏も、のちの王朝も、
支那王朝は
蔑称を使いまくっていますが...
↓魏の太祖・曹操 様もこんな方ですし🤣
西暦百八拾九年頃魏太祖武皇帝陛下之御発言笑
(↑たぶん、ヒミコさまは日本でもう生まれています)
気を取り直して。
現在残っている日本の文献で
最初に「馬」の存在が、
確実に確認できる最古のものは、
日本書紀
奈良時代に成立した日本の歴史書。養老4(西暦720)年に完成した、伝存する日本最古の正史。
もしくは、
古事記
一般に現存する日本最古の歴史書。和銅5(西暦712)年に太安万侶が編纂し、第43代 元明天皇に献上された。上・中・下の3巻。
だそうです。
日本で現存する最古の2つから
『記』と『紀』をとって、
記紀と呼んだりもしますね。
◇天の岩屋戸のお話
スサノオの“馬”
日本書紀、古事記ともに
有名な天の岩屋戸のお話が
一応...『馬』の初出だと思われます。
『天の岩屋戸』から一部抜粋
ある日、天照大御神が神聖な機織場で、神さまの着物を織らせているときに、須佐之男命は、斑模様の馬の皮を剥いで、その死体を機織場の天上に穴をあけて投げ込んだ。さらに、それに驚いた織女の陰部に、梭(機織りで横糸を通すための道具で、通しやすいように舟形になっているので両先端が尖っている)が刺さって死んでしまった。
『馬』は
性的なメタファー(隠喩)ですから、
実は何が起こったのか
とてもわかりやすいお話です。
要するに、
織女がスサノオと
肉体関係を持ってしまったのでしょう。
天照大御神の機織り場は
神の衣を作るところですから、
そこで機織りをする女性(織女)は
全員処女でなくてはなりません。
処女でなければならない織女が
そうではなくなってしまいました。
男性と肉体関係をもったら、
もう巫女では
いられなくなってしまいます。
神の衣を織ることも、
もうできません。
天照大御神は
最高神の巫女なのに、
そのお膝元で織女が穢されたのです。
言うなれば、
今の伊勢神宮のような場所で、
大不祥事を起こされてしまった
ことになります。
天照大御神も、
これには高天原の神々に対して
申し訳が立たないと畏れ、
天の岩屋戸に
身を隠してしまいました。
参考文献:古事記の宇宙(竹内睦泰 先生 著)
...つまり
天岩屋戸の話での馬とは
スサノオのムスコ
“暴れ馬”
を例えたみたいです...
話の内容を想像すると、
実はとても笑えない悲惨な話なのですが、
馬を悪く例えないでほしいなぁ、
とは感じました...
おそらくですが、
古代日本(スサノオの生きた時代)には
馬はまだいなかったでしょう。
後の記紀が編纂された
奈良時代には、
間違いなく馬がいたはずですから、
後の時代から
話が変えられたものと
見てよさそうです。
その他にも、神話の時代に
馬は登場することはするのですが、
(大国主が馬に乗っていたり)
ウサギと話せたり、死人が蘇る
世界観の話の中なので...
今回は省略します。
またいずれ。
それでは、
日本書紀の中にある
動物としての「馬🐎」を
探してみましょう。
古墳時代
4世紀初頭から7世紀に掛けての約300年間。
15代目・応神天皇
応神紀の記述です。
◇原文
十五年秋八月壬戌朔丁卯
百濟王遣阿直岐、貢良馬二匹。
◇現代語訳
十五年の秋、八月六日。
百済王は、阿直岐を遣わして良馬二頭を奉った。
この記述が、
現在発見されている中では
日本で最初に
「馬」の存在が見られる
確実なものになるようです。
簡単に説明すると...
応神天皇の治世15年に、
倭国(日本)と
当時親交のあった
朝鮮半島の南西部にある、
百済(ひゃくさい,백제)
という国の王様が、
日本への使者として
阿直 岐という人物を
派遣し、日本に
良馬2頭を貢物した。
という記述です。
同じ内容の箇所は
古事記内にも見られます。
◇原文
亦、百濟國主照古王、以牡馬壹疋・牝馬壹疋付阿知吉師以貢上。
◇現代語訳
また、百済国主の照古王は、牡馬一頭、牝馬一頭を阿知吉師につけて、献上した。
−古事記−中巻, 応神天皇
というお話です。
この記述の百済王は、
第5代百済国王の肖古王ではなく
現在では、
第13代の百済国王
近肖古王の治世
だというのが、確実視されています。
お二方とも本当は
同じく肖古王なのですが、
区別をつけるために
時代が最近の王さまの方に
『近』の文字が加えられている
そうです。
近肖古王は、
在位が西暦346年 − 375年。
百済の最盛期を築いた
偉大な国王でもあります。
↑TVドラマにもなったりと
かなり有名なお方のようです。
これで、日本書紀内での
応神治世15年時の百済王 = 近肖古王
だと、考えることができます。
また、
古事記の阿知 吉師=日本書紀の阿直 岐
で、間違いないと思われます。
では、応神天皇の治世は
西暦4世紀半頃だといえるのか?
それを一応、考察してみたいと思います。
倭国の五王
支那大陸南朝の宋の正史、宋書に登場する倭国の五代の王、讃・珍・斉・興・武。
この五王を
日本の誰に比定するのかは、
諸説あるみたいですが、
倭王讃は、
仁徳天皇だとするのが
最有力視されているそうです。
仁徳天皇は応神天皇の第4皇子。
4世紀末から5世紀前半を生きたと
考えられています。
仁徳天皇の父である
応神天皇は、4世紀半ばから後半頃の
人物だと考えられているようです。
これでバッチリ
時代背景と辻褄が合うことになります。
簡単にまとめますと、
今の所...
日本で「馬」が最初に確認できるのは
4世紀半ば(370年くらい?)
応神天皇の治世に、
百済の近肖古王から
使者のアチを通じて
牡牝1頭ずつの馬が贈呈されたこと。
だというのが、
現在間違いなく確認できる中では
日本最古の馬の歴史です。
歴史は簡単に覆るものですけれど。
古墳時代当時の日本には
まだ馬がいなかったか
少なくとも根付いていなかったため、
馬の扱いに手馴れた人が
いなかったのだと思われます。
そこで応神天皇は、
渡来人のアチに馬の世話を任せ
「軽」という場所の坂の上にある厩舎で、
馬を飼わせることにしました。
そのために、
馬を飼育した場所が
厩坂と呼ばれたそうです。
「軽」と言うのは現在
奈良県橿原市大軽 町付近
とされており、
ほど近くにある
東大阪市の日下遺跡からは
江戸時代の学者・新井白石は...
自身の著作『本朝軍器考』の中で
『万葉集抄』を引用し、
昔百済国より馬を此国へ獻りたりけるに、(中略)秦氏の先祖これをよく乗れりけり、さて帝これをいみじきものにさせ給ひて、うまといはんと云ふ事定まり、はじめていこま山と云ふやまにはなちて飼はしめ給ひけり。
と記しました。
簡単に説明すると...
新井白石は、
ウマという名称が
応神天皇によって命名された
と考察しました。
また、白石が
記しているように、
「乗馬」も
応神天皇の頃から行われるようになった
と見られており、
応神陵(※応神天皇のお墓)の
陪塚(付属の古墳)からは、
金銅製の鞍橋や馬具が出土しているそうです。
それらのことを
踏まえて考えてみると...
新井白石が主張した
応神天皇による
・馬の命名
・乗馬の導入 説は
あながち的外れではないのかな?と
個人的には思います。
また、後の飛鳥時代の人物で
誰もが知っている
聖徳太子は
本名が厩戸皇子
と、現在に伝わっています。
本当かどうかは
正直、わかりかねますが...
厩、馬小屋で
誕生したともいわれます。
厩戸という名前の土地で生まれた
との説も
存在するようです。
そういえば同時代に
蘇我馬子もいましたね。
馬子と入鹿で馬+鹿。
後世からの悪口で後付けの名前だ
という説も聞きますが…
歴史とは勝者が創るもの。
真実はどうであれ...
聖徳太子らが生まれた
西暦574年頃には、
応神天皇治世の
馬導入時代から200年ほど経ち、
「馬」が日本に根付いたことが伺えますね。