嫌いなことば ブログネタ:嫌いなことば 参加中
本文はここから


「マナー」という言葉が大嫌いです。

相手に対する気遣いとか、生活の便利な智慧とか、そういうもののことなんだろうけれど、
同じ内容なのに、この言葉になると、ルール化して、人を苦しめるものになってるから。

人が人を裁く原因にもなっていると思う。
マナーを知らないだけで、人から見下されることもある。
現実に見下す人はいる。その人にだって、そのマナーを知らない時代があったはずなのにと思う。

とにかく嫌な言葉だ……



マナー講師、西出博子さんは、コラムで

--------------------------------------------------

日本では、マナー、礼儀というと、
なぜか、決められたルール、マニュアルであり、絶対的、
という凝り固まった概念や
印象をお持ちの方々が多いとお見受けします。
これは、大変残念なことです。

マナー、礼儀は、決してこういうときには、
こうしなければいけない、という決まりごとではない、
ということをぜひともご理解下さると、
あなたの人生はグッとハッピーになります。


西出博子さんのコラム 礼儀正しい人が出世します 第5回より引用

http://www.9393.co.jp/nishide/kako_nishide/2008/08_1030_nishide.html


--------------------------------------------------


と仰っていらっしゃるけれど、ここまでマナーという言葉のネガディブな意味が広がっていると、覆すのはかなり厳しいと思う。
っていうか、すでに「マナー」という言葉の音じだいがすでに強制感をかもし出している気がする。
英国での音はそんなことないのかもしれませんが、日本語となった、マナーという言葉は、低い波動を放つ言葉なのかもしれないと私は思う。

試しに並べてみよう。

     マナー

     Manners

カタカナのマナーは、見た目だけでもかなりキツイ感じガする。
英語のマナー「Manners」にここまでの、押し付け感はない。
カタカナがいけないんだろうなあと思う。



正直、日本語でカタカナになっている限り、日本ではマナーなんて言葉は、廃止した方がいいと思う。

日本語で言った方がいいと思う。

テーブルマナー ⇒ 食卓は合理的に進めるために決められたルール、及び手段。

(西洋のテーブルマナーでは、食べ途中だったら、フォークをお皿にハの字型に起き、終わったら揃えておくということになっているけど、それは、ウェイトレスさんへの合図として、そういうふうに決められているだけだと思うから)



マナーとは
「相手の立場にたって、物事を考え、行動すること」。

と、西出博子さんのコラムには書いてあるけれど、マナーができなくて苦しむ人がいるならば、
断片的なマナーを知って押し付ける人がいる限り、
その人たちのために、マナーなんてものは広めてはならないと思う。
正確に言うと、「マナー」という言葉を使用して、心配りのを智慧の形を広めてはならないと思う。


マナーという言葉を使用して、広めるということは、苦しむひとたちの立場に立ってない、そういうことでなのかなと思う。


と、いうわけで、マナーという言葉を嫌うとともに、
心配りの形をマナーというものにカテゴライズして、マナーという言葉を使用して、広める人たちに対して矛盾を感じるのである。

【新生活キャンペーン第一弾】出会いの季節★運命って信じる? ブログネタ:【新生活キャンペーン第一弾】出会いの季節★運命って信じる? 参加中


運命はあると思います。

いろいろな運命の”形”、”定義”があると思いますが、

そのひとつは、何か目的があって、そのために集まってきたものだと思います。


私は、魂のレベルを上げることを目標にひとつとして、今の人生を選んだと、チャネラー、エリザベス・ニコルソンさんに教えていただきました。


私は、アートが、芸術が、大好きです。

小学生の頃から絵が大好きで、高校、大学、とその手の学校に行きました。


ただ、好きで行ってしまったアートの世界。

霊性を高めるために、その道に入ったのかなーと、今、運命を感じています。

(アートは霊性を高めるための、素晴らしいツールだと最近は思うのです。)


そして、その中で出会った芸術作品にも、運命を感じてるものがあります。


今回は、運命を感じている画家、アンドリュー・ワイエスのお話です。


初めて行った美術館に足を運んだのは、もう10年以上前の話です。そのとき見たのが彼の絵でした。

その頃は先生に言われ見に行ったので、何も感じませんでした……

こんなに素晴らしい絵だったのに……

私も変わったたものだなあとしみじみ思います。


****************************


3/7、愛知県美術館で開催していたアンドリューワイエスの展覧会を見に行ってきました。
会期終了間近だったので、絵が見えないほど人がごった返しているかなと思っていたのですが、そんなこともなく、嬉しかったです。

ワイエス、予想通り、とても素晴らしい絵でした!!!!!
最近は、疲れているせいか、絵を見ても感動が薄かったりもしたのですが、それでも心の中に確実に弾をうってきてくれました!!!!!!



ワイエスが絵を見た人に感じてほしいこと、
-それは、描いた対象を彼自身が愛していること-
会場で上映されていたビデオの中で彼はそう語っていました。
(覚え間違っていたらごめんなさい……)

そして、まさにその通りの人だったと思いました。

会場に飾られていた、彼の愛する人物達の絵は、どれひとつ笑顔なものはありません。
(セザンヌなんかは笑っている表情の絵が多いのですが)
気難しい表情をしていたり、暗い表情ものもあったり、もの悲しそうな表情をしていたり……
私の感覚では、そんな表情の絵ばかりだったと思います。

モデルになった人たちは、もちろん、日常では笑う場面もあったのだと思います。
でも、基本的には描かれた通りの人だったのかなと、なんとなくですが思いました。


ワイエスは、モデルになっていた人たちを、よく理解していたのではないかと思いました。
それが、絵からとてもよく伝わってくる。

※彼の絵はとてもリアルで写真みたいです。でも、写真だからと内面が伝わってくるような絵ばかりではないというのが現実です。写真みたいな絵より、イラストチックな似顔絵の方が、その人をよく現しているということもあります。


理解し、私の知識では、一般的には倦厭される、NGな気質(気難しいとか)も愛していたのだと思いました。

愛、愛とはなんなのでしょう、
人は、自分に心地いいものを愛する傾向があると思います。
自分に心地よくない人は認めない、そんな人もいると思います。

でも、ワイエスはそういった部分を知っていて、尚且つ愛していたのだと思いました。
(いや、私にとって微妙なだけで、彼にとってはそんなことは微塵もなかったのかもしれませんが)

自分にとって、心地よいことしか認めない人間に、悟りを開いた人たちと同じ愛はあるのか……最近、そんなことを考えます。
そして、心地よいことしかしようとしないことが本当に愛なのだろうか……とも思います。
両方存在するのが、愛なのかなとも思います。
どちらが欠けてもなりたたない。

いや、ちょっと待って……気難しいということに、ネガティブなイメージをつけているのは私で、ワイエス自身は、気難しいは気難しいだけで、そこには善というイメージも悪というイメージもつけていなかったのかもしれません。
気難しいは、気難しい。ただ、それだけ……みたいな……


これは、私が考えたことなので、ワイエスが本当はどう思っていたのかはわからないけれど、
彼が周囲の人々を深く理解し、私の知る価値観で、人々が倦厭するものを愛していたことは確かなことだと思います。

ワイエスは本当に素晴らしくて、素晴らしくて!

絵を通して感じ、学んだことを、これからの日常に生かしていければと思っています。
対象を正確に理解し、その光も闇も、全てを愛する。
どれだけやれるかわからないけれど…… がんばろうっと!

神様っていると思う?&本当にいるんじゃないか?と思った瞬間 ブログネタ:神様っていると思う?&本当にいるんじゃないか?と思った瞬間 参加中



いると思う。と、いうかいる。

全ての人間が神である。(聖書の一番最初に書いてあります。)

それを私はそのことを、ある出来事を通して、たくさんの人たちのお陰で、気づことができた。

2004年のことである。

気がついたとき、そりゃ、神様探していてもみつからないわ……

と、思ったものであります。


と、いうわけで、全ての出来事は、自分の想ったことの結果である。

思っていることは全て実現する。


************************************


露天の鷹さんは言った。

善の妄想を選べば 善妄想を成立させるピースが見つけられる
悪の妄想を選べば 悪妄想を成立させるピースが集められる
それを選べばそれは おのずからに生成し完成する



と。これを初めて読んだとき、確かにそうだと思うけど……となんだか腑に落ちなかったた気がする。
なんでだったけ?この世には善と悪があって、善だけの世界にいくのか……両方ある世界で、智慧をもってうまく対応していくのか……ということを思っていたような気も。
って、今、よく考えるとおかしい……善のみという世界は成立しない。善があるから悪がある。どちらも切って切り離せるものではない。



腑に落ちなかったけど、最近は鷹さんの言うとおりだったのかなあ……と思う。

自分にとって良い未来を思い描けば、そのために必要な情報、人等が集まってくる。
そのように、運命も動いていく。


例えば、犯罪に巻き込まれず、安全に毎日を過ごしたいと願う。

すると、テレビや人づてに、そのための智慧が供給される。
例えば……オレオレ詐欺等の犯罪の手口をテレビや、人から聞いたり。
知っていれば、気をつけるということができる。

未来もよい方へ動いていく。
オレオレ詐欺の犯人が電話した時間に、誰かが電話してくれていたり。



なんだか、そういうことを実感することが最近多い気がする。

3年前、仕事でしてボツッた提案、あるパーツがなければ成立しないんだけど、そのパーツ自体が手に入らないことが最近わかったという……
(3年前は、パーツが手に入らないなんて思いもしなくて、あるかどうか確認さえてなかったのです。)

3年前は、提案が通らなくて、ショックだけど、パーツが手に入らなかったら、もっと大変なことになっていたことは、明白の理である。お客様に迷惑かけまくりなわけで……


********************************************

この世には善と悪があって、善だけの世界にいくのか……
両方ある世界で、智慧をもってうまく対応していくのか……

いや、智慧をもって善だけの世界に移動することもできるわけで……


うーん、もしかして、智慧を持ってうまく対応できるかどうかを考えるのはもしかしてナンセンスなことなのだろうか……とも思う。
善妄想を描く、それだけでよいのかもとも思う。

善妄想を描けば、悪いことを除けながら、悪に対応していく智慧も身につくのだろうか……とも思う。




なんか、とりとめないな……

でも、鷹さんも言っている通り、

良い未来を思い描けば、良い未来のためのパーツがあつまり、良い未来になることだけは確かなことだと思う。

全ての人間は神なのだから。
最近は、この基本に戻って考えなければならないなーとも思う。
気づいたときの方がもしかしたら、このことをよく理解していたかも……
がんばろうっと!