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日本復興の殿を誰が果たすのか?

まず、東日本大震災で被災された方々にお見舞い申し上げます。


東日本一帯を襲った大地震で改めて認識できたことがある。
それは、日本という国が地震という国家レベルのリスクにさらされて存在しているということである。
地政学的に見れば、極めて天災リスクの大きな国であることを改めて痛感することになった。


そうはいっても、これから国家レベルで復興事業という難事に取り組まなければならない。
世界経済を見ても、日本が経済的成長の余地を残しているのならば別であるが、現状では、
景気低迷が叫ばれる中での国家再興、経済復興は容易ではない。
戦後復興以上に、国民が一致団結して、この一大事業に取り組まなくてはならないと実感している。


そのために、私たちに何が必要なのか?
それは、我利我欲にまい進してきたかつての日本人および日本企業の姿勢を根本から
変えていかなくてはならないということではないか。


“滅私奉公”という言葉がある。
私利私欲を捨てて、公に尽くす意味である。
もちろん企業は営利団体であるから利がなくては成立しない。
しかし、それに併せ、企業も国家百年の計を見据えて活動しなくてはならない時代がやってきた。

滅私奉公という言葉を聞くと、2人の人物が思い起こされる。
1人は豊臣秀吉。
もう1人は島津豊久である。


晩節を汚す形となった豊臣秀吉だが、武将としての評価を高めたのは、彼が織田信長の
朝倉攻めの際の退却時に殿(しんがり)を務めたからだ。
殿は部隊の最後方で、敵の攻撃を防ぎながら、自軍の退却を導く役割である。
味方の援軍もなく、なおかつ退きながら敵の追撃を食い止めなくてはならない。
この危険な任務を買って出て、見事成功させたのが、秀吉だった。


一方、その秀吉が天下を治めた後に勃発した関が原の戦いで、島津義弘率いる島津軍の
敵中突破の退却劇も歴史上、よく知られている。
この退却劇は、敵中に突っ込み、分断し、その勢いのまま、逃げのびるという極めて常識
はずれなものであった。
そのとき、溢れかえる東軍の前に先鋒として斬り込み、最後は殿として、
大将・義弘の退却を成功させたのが島津豊久だ。
豊久は義弘の鎧兜を身に付け、身代わりとして戦地に散ったと言われている。


こんな話を持ち出すと、どこか封建主義的な匂いを醸し出すかもしれない。
ここで言いたいのは、そんな思想的な話ではない。
国家存亡の危機に対して、誰がこの“殿”を務めるのか、ということである。
政府だと、ある人は言う。
しかし、誰もが、殿を務める気概なくして、これからの復興はあり得ないのではないか。


そんなことを考えていたら、現在、危機的な退却劇で殿役を務めている人たちがいることに気づく。
福島第1原発で復旧作業に従事する人たちだ。
過酷な状況の中、まさに最後方で懸命に被害を食い止めようとしている。
その勇敢さに、私たちは拍手を贈らなければならないのではないか。
そして、安住の地でテレビから映し出されるニュースを眺めている私たちこそ、
彼らの勇気と責任感に何かを学びとるべきであろう。

国家を転覆させるネットコミュニティの力とは?


最近のホットニュースと言えば、チュニジアの独裁政権が斃れた矢先にエジプトのムバラク政権が数日間の大規模デモであっという間に混乱に陥った事件。
翻って、日本を見れば大相撲での八百長騒動。
でも、上記の事件をひとつずつ検証してみると、ある共通点があることに気づく。
それが、ネット社会における情報伝播力だ。


チュニジアは20年間以上におよぶ長期独裁政権が支配していた、いわゆるアフリカ大陸にありがちな民主化運動のひとつに過ぎないと思っていた。
だから、新聞の見出しを眺める程度でやり過ごしてきたが、この政権転覆劇の背後に、ツイッターやフェースブックといったソーシャルメディアの力がうごめいていたというニュースを目にしたときからちょっと注目しだした。
矢継ぎ早に、エジプトにその革命の余波が飛び火したときも、デモ参加者がソーシャルメディアを駆使して、情報のやり取りをしていたというから、もはや、デモを企てる人々の必須ツールになっているのでは、と思いたくもなる。
日本で起きている大事件である大相撲の八百長問題。
こちらも、携帯電話のメールが事の発端。


昨年起きた尖閣問題の映像流出事件もそうだったが、なにか大事件が起こるたびに、その背後にネット社会の存在が浮き彫りになるケースが増えた。
今年に入って世界と日本の事件を見ても、実感する。
紙の情報に厚い信頼を寄せて生きてきた世代の一員とすれば、起きている出来事すべてを鵜呑みにしたくない気分もなくはないが、そういう時代を否定するのもまたナンセンスかと思う。
だからこそ、ネット社会における情報の扱い方をしっかりと身に付けておけば、それこそ、こういったひとつひとつの事象に振られることはないのではないか。


いまや、ツイッターもフェースブックも、企業の重要なマーケティングツールのひとつとなっているようだ。
さらに、冒頭のように、有志・同士との情報交換、情報伝播に強大な力を発揮することは衆目の一致するところ。
第二次世界大戦以前の情報発信といえば、ラジオや街頭演説、ビラといったいわゆるリアル社会と密着した手法がほとんどだった。
というより、その手法しかとれなかったわけで、これらは政府の厳しい管轄下に置かれたり、ときには妨害等でうまくいかないケースも多かった。
ところが、ツイッターやフェースブックといったバーチャル世界の情報発信はいわば、リアル社会と隔絶された地下帝国でのやり取りに近い印象を受ける。
戦争映画のワンシーンでよく目にする、地下組織がこっそりと情報をやり取りしている様だ。
だが、そこまで陰鬱なものではなく、誰もが事実とプロパガンダをないまぜにして、情報を発信しあっているようだ。


時代が変わったといってしまえば、それまでだが、チュニジアは23年間のベンアリ独裁政権、エジプトのムバラク政権は30年以上の長期政権だった。
それが、数日間の市民運動で斃れてしまう。
ベンアリもムバラクも、何が起こっているのかわからないまま政権の座を譲り渡す決断をしたのかもしれない。
しかし、この得体の知れないコミュニティの力に恐れ、慄いたに違いない。
それは、同時に、これからの国家運営も、企業運営も、ネットのコミュニティを意識せざるを得ない状況を突きつけられているともいえる。


ちょっと考えてしまうのは、今から約200年前に起こったフランス革命時にネットコミュニティが存在すればどうだっただろう?
“事実とプロパガンダをないまぜに”と前述したが、ほとんどが噂話だけで、断頭台の露と消えたマリーアントワネット王妃などの人々は、今のネットコミュニティの革命劇をどう見るのだろうか?


古い世代の人間はどうもその感覚がつかみきれない部分が多い。
このネットコミュニティもうまく活用すれば、従来にはなかった強大な力を市民に与えてくれるのだろう。
ただし、使い方を間違えれば、犯罪集団の温床と化してしまうのかもしれない。
良薬でもあり、劇薬でもある。
使う人間のリテラシーひとつにかかっている。
現代だからこそ、よりリテラシーを高めておく必要があるだろう。

既存メディアに十字架を突きつける映像流出事件

「ニュースの天才」というカナダ映画を観たのは5年ほど前だったと思う。
若手新聞記者が自身の名誉欲にとりつかれ、次々とスクープ記事を捏造していく実話をもとにした作品だ。やがて、その行為は明るみになるが、スクープを追い求める新聞記者の性(さが)を実感させられる映画だった。
地味な映画だが良作だ。


で、最近の話題といえば尖閣問題。
ついに、漁船衝突時件の映像が「YouTube」に流出してしまった。
YouTubeや Ustreamなどでいわゆる“投稿映像”を視聴できるのはいまや当たり前。
最近では、企業も上記の映像配信サイトを積極的にプロモーションに活用しており、いまや、第3のメディアとして認知されつつある。しかし、私の率直な感想は「この世紀のスクープの第一報がYouTube????」というもの。
デジタルネイティブではない、古いオッサン世代には、何か奥歯にモノが挟まったような違和感を感じずにいられない。なぜだろう?


その違和感の正体は、どうも既存メディアに抱いていた昔ながら期待感であり、先入観なのかとも思う。こういった国家レベルの機密情報の流出映像が大学生たちが作る学校新聞に掲載されるはずがない、と勝手に思い込む自分。
やはり、スクープこそは新聞、テレビ、はたまた週刊誌の出番でしょう、とまたまた勝手にイメージを作り上げる自分。
でも、現実は学校新聞より手軽に情報を発信できてしまうYouTubeが世紀のスクープをすっぱ抜いた。
この事実をどう捉えれば良いのか。


私が抱くスクープ像は、例えば“不肖・宮嶋”こと「フライデー」専属カメラマンだった宮嶋茂樹氏のイメージだ。
東京拘置所に収監された麻原彰昇の姿を日夜張り込みをしながらおさめたスクープ写真。
これがメディアに掲載され、多くの人々に発信される。
当のメディアもスクープだからといって何でもかんでも掲載するかといえば、そうでもない。
いまやメディアは、「疑え」と揶揄されるほど、恣意的な情報操作ばかりが目立つがすべてがそうではない。
例えば、横山秀夫氏の原作「クライマーズ・ハイ」を見ると、その葛藤が手に取るようにわかる。
スクープを手にした瞬間、その喜びと同じだけの苦悩を背負いこむことになる。
たとえ小説とはいえ、メディアに携わる者ならば、自ら発する情報の読者に対する影響力を天秤にしながら決断を迫られる経験を1度は経験しているだろう。


インターネットの普及により、パブリックジャーナリズム時代が押し寄せてきたことを思い知らされる機会が増えた。
ジャーナリストはブログで自身の意見を発信し、既存メディア媒体の枠を飛び越えた「市民メディア」を謳うニュース発信サイトなども数多く登場している。
ITツールの進化が、権威産業化したメディア業界にオルタナティブの風を送り込み、市民参加型のジャーナリズムが勃興してきた。
いまや、メディアも過渡期を迎えている。YouTubeは、ジャーナリズムといった大袈裟なものではないが、それでも現代に登場したグーテンベルグの活版印刷機だ。
新たな情報発信の担い手のひとつとして確立している。


しかし・・・である。
スクープの担い手が単なるツールに置き換わって良いのか、という思いは拭い去れない。
メディアの良心をわずかながらも信じる古いタイプの人間としては、どうしてもその無機質な情報発信の在り方に違和感を抱かずにいられない。
だから、今回の尖閣問題の映像流出にしても誰が情報を漏らしたのか、などは特に興味もない。
そもそも、デジタルデータはコピーされるのが宿命だからだ。
今回の事件は、メディアの担う責務を改めて胸に突きつけられているのではないか。
そう感じてならない。


――メディアの情報は疑え。
すでに多くの知識人が、そんなメッセージを発している。
だからといって、すべてが“簡単・手軽”に発信された情報に身を委ねる勇気は・・・自分自身にはない。
「スクープの天才」で主人公が見せる焦燥感や宮嶋氏のスクープ写真をおさめるためのアナログ的で、本能的な行動すべて、そしてスクープ記事を前にして葛藤を繰り返す現場の記者たち・・・。メディアをわずかばかり信じる者にとって、血の通った情報発信とは何かを改めて感じずにいられない。
そんなものは、おとぎ話の世界に追いやられてしまったのだろうか。


私は今回の事件は既存メディアに改めて十字架を突きつけたと思っている。
一方で、次代のメディアの在り方を問う絶好の機会だとも思う。
せっかくの機会なので、自身もあれこれと考えてみたい。

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