「ニュースの天才」というカナダ映画を観たのは5年ほど前だったと思う。
若手新聞記者が自身の名誉欲にとりつかれ、次々とスクープ記事を捏造していく実話をもとにした作品だ。やがて、その行為は明るみになるが、スクープを追い求める新聞記者の性(さが)を実感させられる映画だった。
地味な映画だが良作だ。
で、最近の話題といえば尖閣問題。
ついに、漁船衝突時件の映像が「YouTube」に流出してしまった。
YouTubeや Ustreamなどでいわゆる“投稿映像”を視聴できるのはいまや当たり前。
最近では、企業も上記の映像配信サイトを積極的にプロモーションに活用しており、いまや、第3のメディアとして認知されつつある。しかし、私の率直な感想は「この世紀のスクープの第一報がYouTube????」というもの。
デジタルネイティブではない、古いオッサン世代には、何か奥歯にモノが挟まったような違和感を感じずにいられない。なぜだろう?
その違和感の正体は、どうも既存メディアに抱いていた昔ながら期待感であり、先入観なのかとも思う。こういった国家レベルの機密情報の流出映像が大学生たちが作る学校新聞に掲載されるはずがない、と勝手に思い込む自分。
やはり、スクープこそは新聞、テレビ、はたまた週刊誌の出番でしょう、とまたまた勝手にイメージを作り上げる自分。
でも、現実は学校新聞より手軽に情報を発信できてしまうYouTubeが世紀のスクープをすっぱ抜いた。
この事実をどう捉えれば良いのか。
私が抱くスクープ像は、例えば“不肖・宮嶋”こと「フライデー」専属カメラマンだった宮嶋茂樹氏のイメージだ。
東京拘置所に収監された麻原彰昇の姿を日夜張り込みをしながらおさめたスクープ写真。
これがメディアに掲載され、多くの人々に発信される。
当のメディアもスクープだからといって何でもかんでも掲載するかといえば、そうでもない。
いまやメディアは、「疑え」と揶揄されるほど、恣意的な情報操作ばかりが目立つがすべてがそうではない。
例えば、横山秀夫氏の原作「クライマーズ・ハイ」を見ると、その葛藤が手に取るようにわかる。
スクープを手にした瞬間、その喜びと同じだけの苦悩を背負いこむことになる。
たとえ小説とはいえ、メディアに携わる者ならば、自ら発する情報の読者に対する影響力を天秤にしながら決断を迫られる経験を1度は経験しているだろう。
インターネットの普及により、パブリックジャーナリズム時代が押し寄せてきたことを思い知らされる機会が増えた。
ジャーナリストはブログで自身の意見を発信し、既存メディア媒体の枠を飛び越えた「市民メディア」を謳うニュース発信サイトなども数多く登場している。
ITツールの進化が、権威産業化したメディア業界にオルタナティブの風を送り込み、市民参加型のジャーナリズムが勃興してきた。
いまや、メディアも過渡期を迎えている。YouTubeは、ジャーナリズムといった大袈裟なものではないが、それでも現代に登場したグーテンベルグの活版印刷機だ。
新たな情報発信の担い手のひとつとして確立している。
しかし・・・である。
スクープの担い手が単なるツールに置き換わって良いのか、という思いは拭い去れない。
メディアの良心をわずかながらも信じる古いタイプの人間としては、どうしてもその無機質な情報発信の在り方に違和感を抱かずにいられない。
だから、今回の尖閣問題の映像流出にしても誰が情報を漏らしたのか、などは特に興味もない。
そもそも、デジタルデータはコピーされるのが宿命だからだ。
今回の事件は、メディアの担う責務を改めて胸に突きつけられているのではないか。
そう感じてならない。
――メディアの情報は疑え。
すでに多くの知識人が、そんなメッセージを発している。
だからといって、すべてが“簡単・手軽”に発信された情報に身を委ねる勇気は・・・自分自身にはない。
「スクープの天才」で主人公が見せる焦燥感や宮嶋氏のスクープ写真をおさめるためのアナログ的で、本能的な行動すべて、そしてスクープ記事を前にして葛藤を繰り返す現場の記者たち・・・。メディアをわずかばかり信じる者にとって、血の通った情報発信とは何かを改めて感じずにいられない。
そんなものは、おとぎ話の世界に追いやられてしまったのだろうか。
私は今回の事件は既存メディアに改めて十字架を突きつけたと思っている。
一方で、次代のメディアの在り方を問う絶好の機会だとも思う。
せっかくの機会なので、自身もあれこれと考えてみたい。
