もうすぐ30歳になる。子供のころ憧れた美人と、今なりたい美人の定義がだいぶとかけ離れていることに最近気づいた。
小さい頃ずっと容姿に劣等感を感じていて(かなりぽっちゃりだった)クラスメイトの美少女にめちゃめちゃ憧れた。黒目がちの瞳に長くてくるんとカールしたまつげ、細く通った鼻筋に小さいかわいらしい唇、ふんわりした天然パーマの黒髪、整った輪郭。全てのパーツに憧れてた。もちろん、周りが「姫」のように扱うかわいい子特有の大事にされてる特別感も。男子たちだけでなく女子たち、そして周りの大人たちも彼女に大しては態度が違っていた。美人って力の強さやお金持ちなんかよりも最強なんだなって子供のころながらに思い知った。それに比べてあたしは…と。つよーい劣等感に苛まれながら育った小学生時代。彼女のようになりたくて小学校卒業して彼女を見なくなってからも頭の中に残る彼女のイメージを追って10代前半はひたすらダイエットやメイク研究に没頭してた。
大人になった今と違って子供・思春期の頃って外見が本当にその人の社会(学校内)でのレベルになる。もちろん性格や知性、裕福が貧乏かとかいう家庭環境その他の要素もあるんだけど、あたしの経験上は悲しいけどそういった外見カースト的なもの環境内で成長したから20代後半にもなった今ですら「外身」に対するコンプレックスがひたすら強い。そして年を重ねたことで新しく出てきたきっと誰でも持つ悩み「劣化する恐怖」も。
もちろん10代の時と違って、美しさは「外見」と「内面」に分けて考えられるようなものでもないし、明確な基準でも計れないとも思う。若い=美しい=魅力的って単純な法則ではないとも思う。10代の頃にはそういういわゆる「内面からにじみ出る雰囲気美」とか「人生経験?から垣間見える深みの魅力」とかいくら周りの大人たちから聞かされていても「そんなのきれいごとじゃん、なんだかんだ言って外見が美人は美人だし、いくら素敵なパーソナリティの人であっても顔がいまいちだったらイマイチなことない?」くらいにしか思ってなかった。
あれから10年経って思うこと。大人の女性って外見がきれいなだけだと世の中基準の美女の定義にいくら当てはまっていても「なんか空っぽ」に見える。若い頃っていくらバカなこと言ってバカなことやっていても「まだこれからのびていく可能性」っていう伸びしろを含んだ上で見られているからそれでも「未熟で可愛い」のかもしれない。20代後半から人と接している中で思うのがその与えてもらえていた「伸びしろ」がどんどん短くなっていってること。
「あれ?ちょっと前だったらこんなこと言ってても「かわいい」とかいわれたのになんか違う・・・」って周りの反応の変化と平行しながら自分の肌や身体は老化していっている。そのダブルの変化に戸惑って「やだ!!年取りたくない!こわい!」って必死になって若返り美容とか美容医療とか探したりしてる時点で、あ、あたしみにくい。。って思う。
老化していくことを諦めるのではなくて、成熟していくことを受け入れる覚悟をしないとまず、美しい人にはこれから先なれないんだろうな。どんなお人形美人も20代後半になってくるとお手入れなしには保っていけない。嫌でも自分の変化と向き合って受け入れていく、変えられることは変える努力をする。
こういう作業をするにはただ「美容」の面だけでとらえたとしても未熟な感覚では対応できない。だからこそ、大人の年齢の美しい人は「なんか空っぽ」じゃ美しくいれないんじゃないか。そんなことを考えてる最近だからこそ、10代のころ憧れたお人形美人と今のあたしが目標とする美しいひとの定義がこんなにもかけ離れてしまってきたんだな。かけ離れながらも未だに思春期のころに持っていた「絶対外見主義」的な面も強く残っているからミックスしていろいろ葛藤したりしている。
感情や考えがごっちゃになっているからこうやって文章にしてみると少し落ち着いてじぶんを見れる。
はっきりしてるのは子供のころから死ぬときまで変わらず「美しくなりたい」って目標を持ち続けるんだろうなあたしは。うつくしい、の意味の定義はこれからも変わっていくと思うけど。