おれが負っているのは義務と責任。
社会が求める歯車演じてる。

安定を求めるくせに安定を捨てたい。
椅子の上で座れず立っている臆病者。

安定が怖い。
一度安定し、椅子に腰かけてしまうと一生立てなくなるんじゃないか。
臆病さゆえ椅子にも座れず、いっそ椅子から降りて歩き出す勇気もない。
だから無理して椅子の上で立っている。
不安定で怖い思いをしながらブルブルかろうじて立っている。

椅子の上から見える、遠くの美しい景色を眺めながら独り思いにふけってる。

そこにある思いは卑屈、諦め、孤独、強烈な自己憐憫と
自己愛。
他者に対する強烈な憧憬、羨望、妬み、恨み辛み…。

椅子の上から見える理想像が妬ましくてならない。
お前が、遠目に見ても光り輝いている、お前が妬ましくてならない。

お前を汚したくてたまらない。
手が届かないお前を汚したくてたまらない。
だからおれは至極当然に。
椅子の上から、お前めがけて届くはずのない液体飛ばす。
憔悴した頭で考える。
やっぱりおれはお前にはなれない。


座りたい。


歩きたい。


立ちっぱなしは辛い。


奥様。
座りなさいと言って下さい。
私の上に座りなさいと。
小さなカメをあやすように頭をなでて下さい。
血がのぼった頭を優しく愛撫して下さい。
奥様の上で安らげたら、おれはまた歩きだせそうな気がします。








乱歩に捧ぐ(笑)



幸福-不平や不満がなく、心が満ち足りていること。幸せ。


これから述べる戯言は想像です。



心が満ち足りるという表現から推測するに、


心は増えたり減ったりするらしい。


心遣い。気を使う。という言葉がある。


この二言から察するに心は使ったり、与えたりできるらしい。


与えたり使えたりするという事は、心はもらえたりもするらしい。


心が減る要因を考えてみよう。


不平や不満になった時。


嫌な事を言われたり、されたりした時、心に傷がつく。


また、心が広い、狭い。心が大きい、小さい。


この表現から察するに心は器らしい。


心の器が傷つくと割れ目から中身がこぼれ落ちるらしい。


まとめると、心は器。中身は気とでも呼ぼうか。


心を気で満タンにしたら幸福になれるらしい。


ここからは想像を超えて妄想になる。



心という器が丈夫で、大きくて広いほど気が沢山入るので、沢山与えられたり、使えたりして、与えた以上に、帰ってきて幸福感も大きくなるのではないだろうか。


子供が喜怒哀楽が激しく、感情を抑えられないのは心の器が未発達で小さく狭いからなのだろうか。


また、大人になるにつれ幸福感が薄れてくるのは、成長と共に器が知らず知らずの内に大きくなっていて、それに気付かないからではないだろうか。


大人になってからも果たして心は大きくしたり広くしたりできるのだろうか?
自分にとってこの世は複雑すぎるのです。

分からない事が沢山ありすぎて…。

全てに明解な答えを求めます。

一つ疑問が解けると、また次の疑問が。


「人は産まれながらに知る事を欲する」


と言ったのは誰か失念しましたが、全てを知りたいのです。

この世あの世、有象無象、森羅万象全てを理解したい。


つまり…ものすごく欲張りなのです。


欲望の街で欲にまみれ生きてます。

結局、本を沢山読んでも、分かった気になるだけの事が多くて、実際に経験・見る、聞く、匂う、触れる、話すなど、実体験、実感しないと本当に理解したとは言えないと思うのです。

知識と経験のバランス。

どっちに偏りすぎても良くないですね。


知りたがりは私利たかり

自分を少し戒めつつ。



最後に
「ずんどこべろんちょって一体何なんだよ!?」←わかる人いたらすごい(笑)



もっと色々…、


単純だったらいいのにね…。


欲求も少し不満なくらいが良いのかもね…。