僕の全ての記憶は鹿児島坊津町から始まる。
こんなに美しい町はない。
目の前には青い東シナ海が広がり、後ろには緑濃い山々が並ぶ。
そんな美しい坊津での我が家は、玉川学園分校の持つ教員住宅だった。一戸建住宅横の土手を越すと砂浜。
土手には小さいけれど野生のバナナの木が風に吹かれ、砂浜には時々馬が引かれて人馬共にゆっくりした時の中にシルエットを刻んでいた。
海に入ると、赤、青の小魚がたくさん泳いでいるのが見える。
好奇心の強い小魚は、子供の僕の脛に体当たりしてくる。暫く海に浸かっている僕はそれに飽きて砂浜に戻り、そこを少し掘ると睡眠を邪魔された蟹が寝ぼけ眼で出てくる。
なので簡単に蟹を捕まえる事が出来た。
思うにその頃の我が家はおそらく経済状態も恵まれていたのだろう。
僕にとっては一番幸せな時代だった。
その鹿児島坊津は母の実家。
島津の示現流を使う武家ではなく、大陸からやってきた一族。
坊津は朝鮮や中国末裔の住む街。
現に私達の祖先は朝鮮貴族だった。
名は林。
その文化の名残は、祭りや神社に残っていた。
話を父に戻す。
父はシェークスピアと古語英語を研究する学者の子として、福井の田舎の寺に産まれ厳しく育てられた。
当然寺を継がなくてはならなかったが自由を選んだ。
結果として寺を捨てた。
父もまた祖父のように、英語とロシア語のスペシャリストとなったが、己からその情熱に正直に生きんが為に住職とは違う道を求めた。その自由と語学への憧れは強力だった。
母とどのよえにして出会ったのか、今となっては永遠の謎。
父母は私が二十代後半に亡くなった。
聞きたい事は山ほどあったが、それもできず親孝行する暇もなく亡くなった。
その父が何故母親の実家、鹿児島坊津で、しかも玉川の教師をしていたのか。。。?
その謎解きとして、母の事をを少し詳しく書く。
母は伯父に大変可愛がられた。
実の父よりも。
本家ではないが、本家には女の子がいなかった事が、母の運命に大きく影響した。
母の伯父が衆議院議員選挙に立候補する際、美人で書の上手い母が秘書役となり選挙に勝利した。多分母は燃えたと思う。
僕は母の子だから分かる。
こんなスペシャルなイベント、母の性格から萌えない訳がない。
その母の伯父の名は中村嘉寿。
中村嘉寿の同級生に玉川学園創立者の小原國芳先生がいた。
当時坊津にはその関係で、玉川学園分校があり、そこで教員資格のある父が職を得た。
母は本家扱いされていた。
僕を可愛がってくれた百合子伯母さんは、すすむちゃんのお母さんは特別扱いだったと、やや悔しさを込めて話してくれた事がある。
僕は南国的な明るさと、、仏像集めが趣味な伯母が大好きだった。
その伯母がそんな事を言っていた。
京都の伯母も心が豊かだった。
同志社の柔道専門の体育講師と結ばれた伯母。
義理の伯父は京都生まれで京都育ちの白人。
従兄弟達はハーフ。
しかし京都という街柄か、
従兄弟達ハーフを隣近所の子供達は合いの子、合いの子といじめにかかっていたという。
石を投げられた事もあったそうな。。。
そんな時、正義感の強い私の母は、甥っ子、姪っ子を身体を張っていじめから守った。と後日その従兄弟達から聞かされた。
母は独身の頃に京都に来ていて、そんな時の話だと思う。
今思うに、世界救世教の中村力従兄弟伯父を頼って、
若しくは伯母である姉を頼って京都に来たのではと想像する。
今更ながら聞きたい事がたくさん出てくるのである。
中村力従兄弟伯父が所属する当時世界救世教の前身、観音教本部は京都にあった。
僕は神戸で産まれて、直ぐに鹿児島は坊津に移ったのだが、もしかして母は父とは京都で知り合ったのかもしれない。
神戸でやはり父は教員をしていたのだが、その前は京都にいた。
母は本家の従兄弟達と仲が良かった事は書いた。
後々その従兄弟伯父達と東京、横浜で会うことになるのだが、母は兄さん兄さん呼び、伯父達はすえこ、すえこ、と呼んでいた。
子供心に、とても奇妙だったが、今は理解できる。
その従兄弟伯父兄弟は、中村初雄慶応大学名誉教授、
中村力世界救世教総長、
中村巌九州石油重役とユニークである。
巌伯父さんは九州石油1000人切り合理化の実行者。
人斬り中村と呼ばれたが、僕には一番優しい親戚のおじさんだった。
人生は簡単ではない。
母は特に中村力従兄弟伯父と仲が良く、葉書のやりとりをよくしていた。
おそらく二人とも感と勘が強く、特殊な才能があったのだと思う。
父は、世界救世教が京都の本部で観音教と呼ばれている頃から知っていた。
やはり寺に生まれた人間、宗教に全く無関心どころか、キリスト教宣教師の通訳を長く勤めていた。
僕はそこで賛美歌に巡り合うのだが、僕の音楽の基礎はこの時に聴いて歌った賛美歌。
話を戻して、中村力従兄弟伯父と母が持つ不思議な才能を、多少僕もその辺りの血を受け継いでいるのでは??と思う事柄が多い。
そして、福井の寺を離れ、中村のこの様な環境の中に入ってきた父に、もう少し我慢と少しばかりの世俗的知恵があれば、祖父と同じくらいにどこかの大学の
教職に就いていたかもしれない。
ある種破滅型の天才肌だったのか、さらに自由と自分自身を見つける旅に出る。
家族もそこから北陸、関西、関東と連れられ鹿児島を離れれば離れる程にどん底に堕ちていく。
母の美しさも、次第に消えていく。
母の美しさは、僕にとって一番の幸福だった。
その美しさが、現実の生活苦で次第に薄れていく。しかしながら子供達に対する愛は逆に深くなっていった。
恐ろしい程に単純な足し算引き算を、美と愛に置き換えて見ている僕達幼い兄弟にとって、あまりにも人生の本質を早く見てしまった。
それが父母の教育だったのか。
それにしては厳しい。
でも、父の生き方に共感する部分は今では多い。
父の口癖は、人生は自分らしさを見つける旅でなくてはならない。
そのプロセスが大事であり、そうでない者は哀れである。
結果として、父の旅は私に大いなる財産を残してくれた。
サックスとその仲間である。
そして、神か仏の脚本ではないかと思うぐらい、不思議な、不思議なご縁に恵まれている。
ああ、父母の力は偉大だなぁ。。。と思う。
そしてその度にあの坊津の海の美しさを思い出す。
全てがあそこから始まったから。
その坊津の先々の島に、まだ会った事のない同じルーツを持つ一族が住んでいる。
奄美に沖縄本島、そして大陸。
遠くはカナダに。
最近知った一番若い親戚の女の子は、シルクドゥソレイユのメンバーだと知った。
これもかなり前に書いたブログを親族がたまたま目にしてから。
であるのでこのFacebookにも書く気になった。
さてさて、この後の僕の人生、母は僕にどんな楽しみを用意してくれているのか。。。笑
父はどんな苦行を用意しているのか。。。笑
それほど長くも無くなってきているが。。。
楽しみ。
その坊津に何年か前に相棒を連れて行った。
相棒は坊津の海の美しさに泣いていた。
何か、天からその時も大きなバイブレーションが響いた。
母の美しい笑い顔がたしかに見えた。
私的な文で申し訳ありません。
中村嘉寿
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%98%89%E5%AF%BF
ありがとうございます。




