世間では、小狡く、小賢く、何事も波風を立てず、清濁併せ吞むことができるようになることを大人になると言っているようだ。
もう一つ、単純に、物理的に年を取るということも「大人になる」という。
その観点で言えば、私は、物理的に大人になればなるほどむしろ子どもになっていっているような気がする。いや、そこは子どもの頃から何ら変わらないと言える。
そして、世間の人が、冒頭に述べたようなことを大人になることだと信じ、その信仰を捨てないからこそ世の中こんな風なのに、そんな世の中に文句ばっかり言って何もしないことにほんとうに吐きそうになる。
私は年の離れた両親の許一人っ子として生まれ育った。
私が生まれた時両親の棲む世界はある意味確立されていて、私はそこにポータブルなものとして連れて行かれた。
その場で「お利口」にしていることが住み込みのお手伝いさんと共に留守番をしないで済む為の条件で、彼らの棲む世界は、なかなかに華やかで、それなりに面白い人も沢山いたので私は殆どの場合お利口にして、共に行く方を選んだ。
よそ行きの服を着て、よそ行きの靴を履いて。
だから、大人がどのような振る舞いをしていたら機嫌よくいるのか・・ということについての経験的分析にかけてはエキスパートとなった。
だから、祖父母の何かにかこつけて、叔父叔母従兄弟姉妹達が集う時、ほぼ同い年できょうだいがいる子達がきょうだいで騒いで大人達に叱られているのを見ると、「どうしてお利口にできないのかしら。叱られてめんどくさい思いをするだけなのに。」と、思った。
その流れで4歳のお正月にそのメンバーでハワイに旅行に行った時、私はハワイと言えばフラダンスに豚の丸焼き!と、楽しみにしていたのに、両親や叔父叔母、小学生以上?の従兄姉達はそれに向かうのに、アメリカの習わしらしく子ども達が十把一絡げに見ず知らずのベビーシッターと共にホテルの一室に閉じ込められ、当時まだ日本には上陸していなかったマクドナルドのハンバーガーと紙パック入り牛乳が振る舞われる・・という出来事があった。
私は絶対に「お利口」にできるのに!との憤りは甚だしく、数ヶ月違いの従兄に「有紀ちゃん、美味しいよ。」と言われても頑としてハンガーストライキをしたことを今でも覚えている。そしてそれが私にとって唯一のハワイの思い出。それ以降ハワイには一度も行っていない。
学齢期になると、大人達にとりあえず「よい子」として認識され、その一方で、必要以上に監視されない為には「とりあえず学校でいい成績をとっておくこと」だということがすぐに判った。そしてそれを大学を卒業するまで貫いた。
確かに、先生を含む大人の中には尊敬できない人も沢山いる・・あ、いや、それどころかむしろ、「物理的にだけ自分より大人」な奴がゴロゴロいることはすぐに判った。でも、そんな奴らに悪い評価を下される方がもっと“けったくそ悪”かった。ましてや、目をつけられて必要以上に干渉されるなんて我慢できなかった。
内心むしろ軽蔑している輩がどうすれば高評価を下すかをリサーチしてアウトプットしてそれを得ると、「ケッ」っと思っていた。
もちろん、ごく稀に、「さすが大人なだけある」!という尊敬できる大人達もいて、そういう人達に真剣勝負を挑んで褒めてもらえた時には嬉しかったけど。
そして、その戦術のお陰で確かに「干渉されない自由」を獲得していたような気がする。
魂も売らずに済んで来た。
だから、あからさまに反発して目をつけられている子ども達には「とりあえず、いい成績とっといたらいいのに。」と、いつも思っていた。
尾崎豊の世界なんかも嫌いだった。
とりあえず、大人の覚えがめでたい状況でいて、大人になった時それなりのポジションについて、そこで自分達の理想とする社会を築いたらいいんちゃうの??と。
反発してたら「それなり」のポジションにつくのは大変そうだから、ルールする側になれへんやろ?と。
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そして私はいつか物理的に大人になり、人の親になった。
そこで私は思った。
「大人は汚い」と。
大人とは、社会をルールする側ではなかったか?
あの頃、若者として大人を汚いものと見做して反発していた人達も皆大人になったはず。
つまり、せめて選挙権は得て、社会をルールする権利は得ているはず。
つまり、あの頃汚いと思ったことを是正したければ是正できる立場にいるはず。
なのに、子ども達の学校の状況は私達の頃よりずっとひどくなっているのに知らんぷり。
一般社会ももちろん然りや。
たまたま「経験したことない人ばかりが大変大変、大変やしなるもんやない」と大騒ぎするPTA会長という立場に「経験してみないと大変かどうかわからん」と思ってなってみた。
そこは、少なくとも物理的な大人、そして人の親の集団だ。
みんな自分の子どもの過ごす学校の環境がよくなってほしいと願っているはず。
その為に集まっているわけだ。
が、学校側に意見する時、「公式の場」ではほとんど誰も何も言わない。
「非公式」にはあれほど文句言ってるくせに。
私は公式の場で言わないと何も変わらないことを知っているので公式の場でも当たり前に発言するが、ほんとうに、「会長さんお願いします」ってな感じで私だけが言ってるような具合にしてそういう場で沈黙されてある意味梯子を外されたことは1度や2度ではない。
昨日、一世代年上の友人がかつて幼稚園の保護者会でクラス全員で集まって園側に全員である要望をすることが決まった後、実際にその場になった時は自分ともう一人しかそれを言わず他の人は沈黙でショックを受けたという話をされたのがこれを描く契機となったのだが、そんな経験は100回以上はしているので、ある意味人間の哀れさを知り、むしろ慈しみの目で見てしまうが、そういうことを私に頼んで来る人はある意味私とそこそこ表向き親しい立場にいたりもするけれど、私の心のリストでは当然のことながら「いざという時には頼りにならない人」に入っている。
学校で理不尽なことが起こっていても、見て見ぬふりをして結局子ども達を不安な状況に放置しているのも結局大人だ。
(内申に影響して)子ども達に不利なことがあれば困るから・・と言って自分が発言しないならそれは見殺しにすることと同じだし、自分が動くつもりがないのなら愚痴も言うべきではない。
つまり、私が思うのは、「四方さんお願いね。」じゃないやろう?ということだ。
あんたらも同じ「大人」やろ? ということだ。
大人が動けば世の中変わるねん。
人任せにしたらアカン。
人任せにしたらアカン。
お前も動けよ。
動かないということは、「変えたくない」という意思表示やし、
だったら一切文句言ったらアカンということやねん。
大人、無垢な子どものマララさんに頼ってたらアカンやろ。
ジャンヌダルクに押し付けたらアカンねん。
私は物理的に大人になった今、子どもの頃想った「それなり」のポジションにはついていないかもしれない。
けれど、本来民主主義の世の中なのであれば、実はどんな立場でも関係なく、一人一人が「こうあってほしい」という理想を捨てずにそちらの方に動けば、必ずそちらの方に世の中は動くはず。
ルールしているのは支配層というのは実は幻想で、ルールしているのは私達一人一人なのだ。