Ⅰサムエル記 12章


1~5節 王は民の要求によって立てられた

「あなたがたが私に言ったことを、私は聞き入れ・・・」(1節)

「・・私の息子たちは、あなたがたとともにいる。」(2節)
→ 息子たちをさばきつかさから退けた。


サムエルは自分の利益のために働かなかった(3節)

※モーセもパウロも利己的ではなかった。

「モーセは激しく怒った。そして主に申し上げた。『どうか、彼らのささげ物を顧みないでください。私は彼らから、ろば一頭も取ったことはなく、彼らのうちのだれをも傷つけたこともありません。』」
(民数記16:15)


「・・私(パウロ)は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。
あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。
このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」」
(使徒20:33~35)


※毎月、安定的に給料をもらって牧会している牧師は自らを吟味しなければならない。


※集会(教会)の監督者は非難されるところの無い者でなければならない

「ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、・・」
(Ⅰテモテ3:2)



6~11節 イスラエルに対する神様の働き

イスラエルの民をエジプトから連れ出しカナンの地に入らせた。
彼らが神を忘れたため、敵の手に渡された。
彼らが罪を悔い改めたら、さばきつかさによって救われた。

→ 彼らが王を求める理由は全くなかった。


12~13節 神様を拒んだイスラエル人

アンモン人ナハシュが攻めて来た時、神様を退けた。

「あなたがたは、アンモン人の王ナハシュがあなたがたに向かって来るのを見たとき、
あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、
『いや、王が私たちを治めなければならない。』と私に言った。」
(12節)

※11章には書かれていないが、サムエルとのやりとりがあった。
イスラエルの民は、神様に対して不敬虔であった。


※イスラエルの民が、サムエルを退けて王を求めたのは、集会(教会)の主であるイエス様を退けて、世を真似て教会を組織にしたことと同じである。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
(黙示録3:20)


14~15節 王政になっても、神様を恐れること

王を求めたことは間違いだが、神様に従っているなら祝福される。

従わないなら災いが下る。


16~19節 雷と雨によって神様の御心を損なったことを示した

小麦の刈り入れ時には、雷や雨が下ることはない。
イスラエルの民は、季節外れの雷と雨によって、自分たちの罪を知った。
→ 人間は道理的な説明ではなく、奇跡的な出来事を経験して自らの罪深さを知る。


※神様は怒って王を与えた。

「あなたを救うあなたの王は、すべての町々のうち、今、どこにいるのか。
あなたのさばきつかさたちは。あなたがかつて、「私に王と首長たちを与えよ。」と言った者たちは。
わたしは怒ってあなたに王を与えたが、憤ってこれを奪い取る。」
(ホセヤ書13:10~11)


※集会(教会)もキリスト者も希望通りに物事が実現しても、神様のみこころとは限らない。


20~25節 神様のあわれみ

イスラエルの民が見捨てられないのは、ご自分の御名のゆえ

※イスラエル人は罪のためにバビロン捕囚や、イエス様を拒んで二千年間迫害の歴史を歩んでいるが、
歴史の最後には、神様はご自分の御名のゆえにアブラハムの約束を成就される。


「 私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。」
(23節)
→ サムエルにとって、祈るのをやめることは罪


モーセとサムエルは、偉大なとりなして

「主は私に仰せられた。『たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない。彼らをわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。』」
(エレミヤ書15:1)