関西で活動する音楽グループConceptusのブログです。
発起人流の藤戸解釈、いよいよ最後となりました。
明日はいよいよ初日です。
テーマはずばり、「修羅から地獄へ」
このチラシデザインからもおわかりでしょう。
イメージとしては、地獄の洞窟の中で、
血の涙を流した鬼女にまとわりつかれる、というもの。
修羅とは、一般に「闘争」の要素であると言われています。
源平合戦そのものは確かに修羅の話です。
武士と武士との戦闘であり、
戦闘員が戦闘員を殺傷するのは修羅として当たり前の話。
しかし、非戦闘員を殺傷するとなれば、これは地獄です。
佐々木盛綱は、浅瀬を教えた子供を、
非常に利己的な理由で殺して捨てました。
敵に、ではなく、味方の他の武将に漏れて
先陣の功を奪われるのを恐れたからです。
これが、盛綱の地獄の始まりでした。
他にも、平家方の非戦闘員を、
命乞いをしているにも関わらず、
無残に、楽しむかのように殺傷している場面も作っています。
女に問い詰められて口にする言い訳ときたら、
「子供は平和の生贄で、平和が来たのだから死者も成仏する」
というものです。
これは、何の言い訳にもなっていません。
子供を殺さず、情報も漏れぬ方法はあるのですから。
朝、出陣の時まで、陣に子供を留め置けば良いのです。
殺す必然性は全くない。
とにかく盛綱はろくなことを言いません。
挙句に発するのが、
「一切有情殺害三界不堕悪趣」です。
そんなわけで、これまで上演されてきたどの「藤戸」よりも、
盛綱は気が小さくて失言の多い、クズとして描きます。
最後の逃げ出し方は情けない限り、
これまでのどの盛綱よりもみっともない逃げ方です。
一方、観る人にとって、女は不思議な存在のはずです。
母親だと言いながら、最後は狂気の芝居をやめ、
盛綱が置いて行った刀と絹の襦袢を持って行ってしまいます。
今回、子供の母親であることが確実と見ることができるのは、
ストーリーテラーとしての役割を担う、
千鳥、という役に設定しています。
千鳥という姉御と手下が、藤戸合戦事件について語り、
半ば再現劇のような形で物語を展開していきますが、
千鳥は子供の殺害場面になると目や耳を塞ぎ、
走り去ってしまいますし、
最後はどこからか聞こえてくる子供の歌声に、
泣き伏してしまいます。
盛綱に責め寄る女がさて、誰なのか、
子供をダシに使っての強請りたかりと解するもよし、
千鳥の過去の姿と思うもよし、
観客各々がそれぞれの解釈を持てる余地を残しています。
最後に、女と子供が歌う子守歌の最後に出てくる、
「坊が眠れば、荒れるまい」
という歌詞について解釈致します。
直接的には海が荒れない、という話なのですが、
この場合については、
「子供の霊が成仏できれば、母親の心は鎮まるだろう」
という意味に解釈しています。
女が歌っている時、千鳥とコロスがこうコメントするのです。
「悲しきことは思い出すまじ」
「忘れんとする心こそ、忘れぬよりはおもひなれ」
要するに、こういうことです。
悲しい出来事は思い出さないでおこう、
忘れようとすることこそ、
いつまでも忘れずにメソメソしているよりも良い供養になるだろう。
最後は、母が語り部として惨劇を知らしめたことで、
子供の無念が晴れて成仏していく、
そんな場面で締め括ります。
それでは皆様、お楽しみ下さい。