関西で活動する音楽グループ、Conceptusのブログです。


発起人のぼんちです。

5月5日、前回「セヴィリアの理髪師」で行ったように、

「フィガロの結婚」でもアナリーゼの講座が開かれました。

作曲家の宇野文夫先生によるアナリーゼ講座です。

5月29日にも行われます。





さて、今回は個人のアリアのレッスンの後、

全体でのレッスンが行われたのですが、

その最初に、どういうレッスンをするのか、

どんな風にアナリーゼするのか、ということを

宇野先生にお話しいただきました。


概論をお話し下さった後、

来る前に書いてきた、と言われ、

ケルビーノのカンツォーネ、Voi che sapeteのメロディだけ

4小節ごとに段を替えて書いたものを配られました。

これをどのように見ていくのか、ということで

作曲の観点を交えたアナリーゼをして下さったのですが、

これを聴きながら、いつしか涙ぐんでいました。


そもそもこの曲には、

清々しいまでの青春の息吹と、哀しさが込められています。

昔からそれを感じて、聴くたびに涙ぐんでいたのですが、

改めて単なるメロディを提示され、アナリーゼを聴くうちに、

どうしてそう感じるか、という理由と共に

その気持ちが溢れ、涙ぐんでしまったわけです。


最初の12小節がテーマです。

このテーマだけ考えると、

イマドキ小学生でも書かないようなつまらない和声進行を

与えてやることだって出来るのです。

でも、モーツァルトはもちろん、そんな愚はしなかった。

切ない思いのこもった和声進行を与えています。

でも、それが青春の気持ちなのです。

あるいは、長じて後、青春を振り返った時の

何ともいえない気持ちのこもった和声なのかもしれません。


モーツァルトがどんな態度でこれを書いていたのか、

それはもはやわからないところです。

しかし、もしこのメロディを私が書いたとして、

この和声を生み出したとしたら、

私はきっと涙を流しながら書いたに違いありません。

私は作曲もしますが、実際にそんな風に書いた曲もあります。


さて、そこで演奏家の皆さんにはわかっていただきたいのです。

作曲者が涙を流しながら書いた音楽というものも、

世の中にはある、ということを。

書き下ろすという作業をしている時は、

ひょっとしたらギャグを飛ばしながらだったかもしれないけれど、

ふとそのメロディを思いついた時には、

ウッと泣きそうになってしまったかもしれないじゃないですか。


考えてみてほしいのです。

自分はこの曲のどこに感動できるのだろう?と。

なぜ、出演オファーを断らない程度には好きでいられるんだろう?と。

泣ける箇所があるのなら、もっけの幸い。

その理由を楽譜から探り当ててみようではありませんか。


そこが明確になって初めて、

観客に与えたい感動も明確になるのです。

観客を感動させたいのは誰しも同じですが、

漠然と感動させたいと思っても、

それでは発信の切っ先が鈍るというものです。

明確な目的と、適切な武器で斬りこみましょう。

そのためにはアナリーゼは必須です。


ちなみに、私はこのケルビーノのカンツォーネの、

適切なテンポというものを、まだ見つけていません。

この曲の自筆譜には、他人の筆跡でAndanteとあり、

それは私にとっては、速度指示がないのと同じです。

仮にAndanteとすると、遙かに速く演奏することになり、

そうなると、演出プランが崩壊します。


もう15年は考え続けていますが、

まだ答えにはいきついていないのです。

一生答えは出ないかも、という気もしますが、

それでもあきらめきれないのです。