3月13日は父の祥月命日である。
とはいえ、50年以上も昔のことで祭り上げは終わってしまっている。
父の亡くなった13日は金曜日だったそうである。
神道なのだが、母は生前これを気にしていたようだ。

3月も半ばになんなんとしている。
3月は父の命日と教え子の命日がある。
11日は東日本大震災。
そして4月は母の命日でもある。
春先は桜も悲しげなトーンであるかもしれない。

深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け(古今和歌集・上野峯雄)

(深草の野辺の桜よ、心があるならば、大臣への弔意を示して、今年くらいは墨色に咲け。)

源氏物語・薄雲には、源氏が藤壺の宮の亡き後、懐旧の涙にくれる場面でもこの歌が思い出さる。

「をさめたてまつるにも、世の中響きて、悲しと思はぬ人なし。殿上人など、なべてひとつ色に黒みわたりて、ものの栄なき春の暮なり。二条院の御前の桜を御覧じても、花の宴の折など思し出づ。「今年ばかりは」と、一人ごちたまひて、人の見とがめつべければ、御念誦堂に籠もりゐたまひて、日一日泣き暮らしたまふ。夕日はなやかにさして、山際の梢あらはなるに、雲の薄くわたれるが、鈍色なるを、何ごとも御目とどまらぬころなれど、いとものあはれに思さる。」

ご葬送の時にも、世を挙げての騷ぎで、悲しいと思わない人はいない。殿上人など、すべて黒一色の喪服で、 何の華やかさもない晩春である。二条院のお庭先の桜を御覧になるにつけても、花の宴の時などをお思い出しになる。「今年ぐらいは」と独り口ずさみなさっ て、他人が変に思うに違いないので、御念誦堂にお籠もりなさって、一日中泣き暮らしなさる。夕日が明るく射して、山際の梢がくっきりと見えるところに、雲 が薄くたなびいているのが、鈍色なのを、何ごともお目に止まらないころなのだが、たいそう悲しく思わずにはいらっしゃれない。)

春愁という言葉もある春は、なにかしら悲しいものに思える。

今日もウィノローグに来ていただきありがとうございました。
今学期もあと一週間。
がんばろう!