3月11日は、みなが思い出す日として記憶されている。

1月17日も、阪神淡路大震災の日として、記憶されている。

だが、「その日」が、三回目とか○回目とか、あちこちでアナウンスされるのは、微妙な違和感がある。

煎じ詰めれば、「記念日」として、固定化されてしまう不安だ。

それは、「その日だけが思い起こされる日として記憶される不安」でもあるし、そこで「記憶をめざめさせた不安」でもあるし、「以後、忘れ去られる不安」でもある。

3月12日が、記憶から消されることのない「3月11日」からの再生の日の、たった一日の道程の日であり、ずっと続く未来への記憶の一日一日の普通の一日であることを、願う。

記念日とかでなくて、東北の復興を日常の思いとして維持できるか。

そこかな。


今日もウィノローグに来ていただきありがとうございました。
あの、震災の翌日の朝の空からの画像、地上からの画像。
今でも、自分の記憶から消し去れない。