人生の中で、いろいろと「記念日」はあるものだ。

その最たるものが誕生日だ。
自分の誕生日だったり、愛する人の誕生日だったり、子どもの誕生日だったり。

その人がこの世に現れた日というのは、本当に貴重な日なんだな。
その人を愛する人にとって。
だって、その人が生まれてこなかったら、自分のその人への愛は存在しないのだから。
だから、その日を、他人も記憶の中で記録できる日として、記憶し、祝うんだ。

で、一方で、その人がこの世からおさらばした日も、また大切なんだね。
愛する人を失うことは、その人の存在意義をもっとも浸食するものだ。
存在の危機が、愛の対象の喪失だ。
だから、すごく大事な日だから、「命」を冠するんだ。
「命日」って。

誕生日と、命日。
誕生日は、生きている間に何度も振り返ることができるけど、命日は振り返られないね。
ってか、「自分」が振り返ることそのものが不可能だね。

誕生日は、「自分」も家族も友人も、その日を人生の一日として記録・記憶できるけど、
さすがに命日は、「自分」では記録も記憶もできない。
命日は、自分以外の人の中で記憶される日なんだね。

一年三百六十五日のそれぞれは、生きている者にとっては平凡な日だけど、
死んでいった者にはそこで断たれて、誰かが記憶してくれないと意味のない日かもしれない。

で、何がイイタイノカというと、
人生の中の一日。
誕生日も含めて、いろいろと名づけられる記念日。
成人した日、入学した日、卒業した日、就職した日、婚約した日、結婚した日、入院した日、退院した日などなど。
それぞれを、価値のある一日として意味づけないと人は生きていけないのかも、ということ。

平凡な、今日の2月25日が、ある人にとってはかけがえのない、記念日の一日かもしれない。
そういう、365分の一の平板な一日を、意味のある一日にするのは、自分であったり、自分の後にもなお生きている「他人」であったりする。

自分が死んだあと、自分は他人にどう記憶されて残るのか。

それをこのところ考えるなぁ。


今日もウィノローグに来ていただきありがとうございました。
うまく考えがもとまっていませんが、お許しを。