人を見た目で判断するのは、あまりよいこととは言われない。
いかつい顔の男がものすごく繊細だったり、誰もが振り向くような美女が金の亡者だったりするのが世の常だから、見た目の先入観で人を判断したらよくないということだろう。

まことに一理あることとは思うが、しかし、人は人を見た目で判断するものである。

見た目で、こいつは裏のある人間だとか、きっと腹黒い奴だとか、義理堅い人間なんじゃないだろうかとか、男の子にもてまくりなんだろうなぁとか。
それこそひと目見ただけの直感で判断したりしながら、私たちは生きているわけだ。

そりゃあ、当たり前だ。
その人物の本当の姿をわかるまでには相当な道のりがあるわけで、そんな道のりをゆっくり歩いて行くほど我々は時間があるわけじゃないので、見た目で判断するのは生きていくための一種の知恵とさえいえる。

ただ、その判断が、時間が経つにしたがってあやふやになったり、間違っていたりしたことに気づいた時に、切り札のようにつぶやかれるのが、「人を見た目で判断してはいけない」 という言葉だ。
この言葉が警句として実効的であるためには、むしろ 「人を見た目だけで判断してはいけない」 とした方がましなんじゃなかろうか。
「見た目だけで判断してはいけない」という表現には、見た目以外の要素も含まれているからね。

見た目以外の要素はつきあいが進むにつれて徐々に明らかになっていくので、その過程で最初の判断を修正しても恨まれることはないだろう。
そうして常に修正する柔軟さをもってつきあっていけば、「あんたがそんな人だとは思わなかった」 というような悲劇的な状況も多少は緩和されるように思われる。

人を 「見た目で判断」し、つきあいつつ「見た目だけでない要素」も吸収しつつ、人物像を修正しながらつきあいを深める。
これがいいのかもなぁ。


今日もウィノローグに来ていただきありがとうございました。
さわやかさ、息苦しさ、かわゆさ、にくにくしさ、ふてぶてしさ、めめしさ・・・・などなど。
どんな人物にも、多面体のようにこんな言葉が貼り付けられているものだと思った方が楽かもね。