「ぶんぽう」と聞いて、気分がよくなる人はまずいない。

「エイぶんぽう」「コテンぶんぽう」とくれば、生徒が教科を嫌いになる最たるもの。

「ぶんぽうアレルギー」が、中高生にとっての正しき英語教育と古典教育を侵害しているのは、たぶん間違いない。

かくいう私も、高校時代は「古典の動詞の活用」に悩まされたものだ。


「ア・イ・ウ・ウ・エ・エ」だの、「テ・テ・ツ・ツル・ツレ・テヨ」だのを、わけもわからず覚えさせられて、それだけで古典を苦手科目に計上するのに時間はかからない。

文法にむやみやたらと詳しくてその知識を生徒に押し付ける先生に反感を抱いたこともある。

「なんで、あんなに詳しいんだ」と恐れをなしたこともある。

その先生に放課後残されて、動詞の活用をそらんじるのがいちばん嫌だった。


それに対して、現代文の読解はなんと楽しかったことか。

かたい文章も、やわらかい文章も、どちらも読める楽しさ。

本を読み込み、自分なりに解釈する楽しさ。

今を生きている日本語の方が心地よかったのは事実だった。



それが、今は私自身が、大嫌いだった「コテンぶんぽう」を教えている。

「ア・イ・ウ・ウ・エ・エ」だの、「テ・テ・ツ・ツル・ツレ・テヨ」だのを、なんの疑問もなく生徒に教え込んでいる。

この落差はなんだろうか。


いま、国語の教師として、現代文を読み解かせ、古典文を鑑賞させている。

当然、「ぶんぽう」にも触れざるを得ない。

古典を古典として丸ごと鑑賞するためには、「ぶんぽう」は不可欠なのだ。

もちろん、古典常識、語彙力、有職故実、典礼、故事、文学史、音韻などの知識も必要だが、たった10文字程度の短い文章を読み解くにも、実は「ぶんぽう」の知識がないと太刀打ちできないことは多々ある。


だから、あだや「ぶんぽう」をおろそかに出来ない。

しかし、しかし、しきゃーし!

私もそうだったように、「ぶんぽう」が生徒たちの、文化に触れたいという意欲を損なう要素が強いことだけは事実のようだ。


だが、それでも古典の勉強の第一歩としての「ぶんぽう」の意義はゆるがせにできない。

「ぶんぽう学習」の先にあるものを、はかなきものを、それでも力強く訴えながら、古典を少しでも理解してくれるように生徒を導くのみだ。