では、人間なるもの、偏らないということがありえるでしょうか。


それは土台無理な話だと思えます。


もちろん、賢い人間は己の意見がどこに位置づけられるかをわかっているでしょう。

それが「偏見」という範疇に入るか入らないかも見極めているでしょう。


しかし、己の意見の位置づけを判断するのは、やはり己の経験や感覚であるはずです。

「感覚」という語が不適切なら悟性とでもいうべきか、とにかく、己の意見を位置づける当の「自分自身」が、何ものからも「偏っていない」と保障されている存在ではないのです。

だから、「自分」では客観的だと思っている「自分の意見」が偏っているということは十分ありえることでしょう。


そして、その偏った意見が正当な意見として力をもつことほど怖いことはないではないのではないでしょうか。


たとえば、ユダヤ人蔑視(という偏見)を掲げていたナチスしかり、また、「(偏見に満ちた)未開」というレッテルを貼り付けて、アフリカやアジアの民族に自らの価値観をおしつけてきた植民地時代の欧米列強しかりです。



いや、恐ろしい「偏見」がのさばっているのは現代も変わりがないのです。

今回の件で、「それはあなたの偏見でしょう」と何度か言いたい衝動に駆られました。

ミーティングでの意見は彼・彼女たちの経験から割り出されてきたものであって、それが必ずしも客観的な意見でないことは、その意見と立場を異にする意見があることからも明らかです。


しかも、それが建設的な意見なら考え方の違いはあっても認めないわけではないのですが、自分の立場・自分の眼鏡に映った像を、あたかも客観的な意見と装って言っているところに非常な違和感を覚えたのです。


でも、それが彼・彼女たちの意見であるなら、「すべての意見は偏見から生まれる」とでも言わざるをえない、と思ったのでした。


かく言う私の意見も「偏見」かもしれませんが…