好きな作曲家にワーグナーと名前を挙げたが、どうも書籍・文献を読む限り、あまりいい人物ではな
かったらしい。自己中心的でわがまま、平気で嘘をつき、浪費癖があり、借金を平気で踏み倒して
いたらしい。ううん・・・これでは、人間失格である。もし、ワーグナーの音楽を聴く前にこの事実を
知っていたら恐らく好きにならなかったかも知れない。かかる状況ながら、現在、「大作曲家」と言われ
るのであるから、良い時代に生まれたものだ。もし、現在に生まれたとすれば、確かにその秀でた
才能から売れっ子作曲家になっていたかも知れないが、コンプライアンス違反行為から業界追放と
なり、活動は短命に終わっただろう。

簡単に略歴をいうと、ワーグナーは1813年生まれ。
おおっ!来年は生誕200年ではないか・・・。色んなイベ
ントがありそうだが、日本に住んでいない私には恩恵
なしだろう・・・。少し残念だ。15歳のころベートーヴェン
の音楽に感動し、音楽家を志したらしい。1831年、
18歳の時にライプツィヒ大学に入学。哲学や音楽を
学び、翌年、交響曲第1番ハ長調を完成させた。大学
に入って1年で交響曲を完成させているとは、さすが
天才である。初期の成功作品である
「さまよえるオランダ人」は、1842年に29歳の時に完成
されている。この序曲は、重厚でやや陰鬱なワーグナーサウンドを聴かせながらも、美しく繊細な木管
楽器の旋律との対比が絶妙で、そのバランス感覚と色彩豊かなオーケストレーションが特徴だろう。
金管楽器は常に緊張感のある張り詰めた演奏が要求され、技術的にも妥協がなく、高度なテクニック
が要求される。この複雑で描写性の高い舞台音楽を29歳で作っているとは素晴らしい。
ここで、「ワーグナー派とブラームス派の対立」について書いてみたい。先程書いたように、ワーグナー
はベートーヴェンの音楽に感動し、音楽家を志した。一方、ブラームスは、ベートーヴェンの交響曲
第九番合唱付きをその目標に、数十年の年月をかけて交響曲第一番を作曲した程のベートーヴェン
信者である。なぜ、この2人が対立派となってしまうのか?実は、ブラームスは交響曲第九番を崇拝
しながらも、作曲法そのものは、交響曲第五番「運命」を模範としていた・・・という文献が残されて
いる。ブラームス派は純粋な音楽を好み、それを「絶対音楽」と呼んでいた。「音楽の美は、あくまで
音と音の中にあるべきものだ」というハンスフリックの言葉がその思想を顕著に物語っている。
一方、ワグナーは第九番の合唱付きに惹かれた。第四楽章に歌を加え、言葉でメッセージを伝えた事
を最高の表現性とでも思ったのではないかと思われる。そのため、ワーグナーは歌や踊りを盛り込ん
だ「楽劇」を数多く作曲した。リストは「交響詩」という新しい形式を作った。ワーグナー派
(新ドイツ派)は、音楽と他の芸術(文学や絵画等)とを結びつけることにある種の音楽の方向性を
求めていて、「標題音楽」的な傾向を強く持っている。ワーグナー派は、ワーグナー、ブルックナー、
リヒャルト・シュトラウス、マーラー、ヴォルフ、シェーンベルグ等。一方、ブラームス派は、ブラームス、
ドヴォルザーク、ハンスフリック、メンデルスゾーン、シューマン等だ。あなたはどちらの音楽が好みで
しょうか?私は、どちらでも好きです。対立しなくて良いのに・・と思わなくないが、それを助長する、
全く別の事情がその裏にはあったようだ。
ワーグナーの支持者(後にアンチに鞍替えする)であった作曲家で指揮者のビューローの妻「コジマ」
は少女時代からワーグナーの才能を尊敬・崇拝していた。コジマはビューローと結婚し、2人の子を
授かった。ところが、その後ワーグナーと親密な仲となり、ついにワーグナーの娘イゾルデを産んで
しまう。ワーグナーの正妻ミンナが病死(1866年)したのち、コジマはビューローと離婚してワーグナー
と再婚した(1870年)。そしてビューローはワーグナーと決別し、当時ワーグナー派と意見が対立して
いたブラームス派に加わり、徹底批判に廻ったらしい。これで、ワーグナーの追放・失脚をたくらんだ
ようだ。恐いね。でもビューローのー気持ちは判らなくもない。
さて、ワーグナーとブラームスはそりが合わず、犬猿の仲のだったらしいが、それはワーグナーの
一方的なもので、ブラームスはそれをあまり気にしていなかった様だ。1870年にウィーンで催された
ベートーヴェンの生誕100年セレモニーに講演者として招待を受けて快諾したワーグナーであったが、
土壇場で出席者リストにブラームスの名を見つけて出席を拒否したらしい。
少し子供じみた行動は如何ともし難いところだ。
