私の仕事にはあまり関係がないのですが、人工知能の方のAIに関連して、人間の意識に関する著作や動画を最近よく見ています。

近年は、機械学習・深層学習を梃子とした第3次AIブームが到来していますが、このブームに一つの基礎を与えているのは、認知科学領域における知見の蓄積であると言われています。
門外漢の私には、神経科学(脳科学)がどうとか、言語学がこうとか、専門的なことはよく理解できないのですが、一般人向けの認知科学のコンテンツにおいて見掛けることが多いテーマの一つに、人間の意識とかクオリアというものがあります。

人間は、五感等の感覚器から入手したデータに基づいて自分を取り巻く世界(外界)を認知し、反射的な反応を除いて、自由な意志に基づいて行動している、と多くの人が思っています。
これに対して、よく提示されるのが、リベットの実験です。指を曲げる決定をする前から、脳は指の筋肉に曲げる指令を出しているというやつです。結果、意識的に決定したと思っていることは、既に無意識に決定されており、自由な意志によって決定していると思っているのは錯覚である、よって自由意志は存在しないとなっていく訳ですが、これには様々な反論もあるようです。
反論の例として、以下のようなものがあります。まず、この反論には、人間は、世界についての膨大なデータを無意識において処理し、自分にとって必要かつ矛盾の無い世界のイメージ(視覚を例に採れば、VR画像のようなもの)を作り出した上で、そのイメージを意識で認識しているという前提があります(これは、自由意志否定論でも共有される場合があります。)。その上で、指を曲げる脳の指令が発せられてから実際に指が曲がるまで生理的にタイムラグが生じるが、それをそのまま意識に認識させると円滑な動作に支障をきたすので、指を曲げようと決定した瞬間を指が曲がる瞬間までズラしたイメージを無意識が意識に認識させているのだと主張するものです。つまり、自分が決定したタイミングを遅れて認識している(させられている)というものです。自分が決定したと思っている前に自分が決定していたというのは、本当に自分が決定したと言えるのか若干モヤモヤしますが、自分(の意識)で決定していないと言われるよりは受け入れ易い感じがします。
(その他にも、無意識において発せられた脳からの指令を意識的にキャンセルできるという実験結果から、自由意志は存在するとの反論もあります。)

この自由意志に関する論争は措くとして、私が関心を持ったのは、人間の脳が、無意識に膨大なデータを処理して、イメージを作っているという部分です。これは『無意識という職場で無数の小人が働いている。』と喩えられたりします。
何となく“こっち”といった決定を誘導されている感覚は、誰でも感じたことがあると思いますが、私は、社会人になって10年経ったくらいから、今すぐ論理的に説明するのは難しいが、少し時間をかければ論理的に説明できるという感覚と共に“こっち”という感覚を受けることが多くなりました。そして、実際に“こっち”が正解という場合も多くなりました(ただ、極度の方向音痴なのか、方向に関する“こっち”は真逆である場合が多いです。)。
また、ある仕事をしている間に、複数の別の仕事についても考えているという感覚を受けることも増えました。そして、ある仕事が終わった瞬間に、別の仕事の問題点に気付くことも増えました。
これは、身近な例を挙げれば、車や自転車の運転に慣れると運転しながら考えごともできるというのと同類だと思いますが、AIが急激に進歩しても自動運転はママならないことを考えると、元来人間が有している無意識の小人たちは物凄く処理能力が高い、ということになるのではないかと思います。

私が、上記のような感覚を受けるようになったのは、①様々な仕事の全体像が何となく把握できるようになってきた(仕事のプロセスにおける現在地が分かるようになってきた)ことと、②知らない情報や理解できていない仕組みが少なくなった(出来る限り事前に調べるようになった)ことが大きな要因ではないかと思っています。要は、仕事を進めるために必要なデータとそのデータの処理方法、そして処理の手順が入力された状態になったということかと思います。
そして、入力が完了したら、無意識の小人たちが、頑張って処理してくれているのではないかと思ったりします。ただ、その処理結果は、視覚的なイメージと異なり抽象的であるため、意識が認識しようと思うと言語や図表、抽象画によって記号化しなければならず、この記号化の部分で、意識(感覚的には私)が頑張っているのかと思ったりもします。
AIに関連して、記号主義とコネクショニズムという考え方が出てきますが、様々な生のデータを分類して、記号化し、記号を論理的に操作することも、訓練すれば、車の運転のように無意識にできるようになるのかもしれません。算盤名人の暗算のように。

このような着想から、私は、娘に勉強を教える時には、できる限り全体像を示して論理的に教えるようにしています。また、分からないことがあったら、すぐに先生かGoogle先生に教えを乞うように言っています。
折角、若い無意識の小人たちが待機しているのに、勿体ないですからね。
詰め込み教育は悪だと言われたりしますが、ちゃんと情報を分類して論理的に教えられるのであれば、どんどん詰め込んで、無意識の小人を鍛えた方が良いのではと思います。

余談ですが、娘に勉強を教えながら、私の学生時代のことについて話したことがあります。
パパは、昔、構造主義や記号論という学問の研究をしたいと思って大学に入ったんだけど、哲学系の学者じゃ飯も食えないし、学生生活の楽しさにかまけて志も失ってしまい、法学部に進んだんだよ。法学は、非常に論理的な学問なんだけど、実務があるので全く論理的でない部分もあって、結局、法律の専門家にもなれなかったんだよね。
でも、これはパパの自由意志で決めたことだから後悔は無いし、御蔭で家族のみんなと出会えたから(家内とは職場結婚です。)、良い決定をしたと思っているよ。
娘には、あまりイメージの湧く話ではなかったようですが、無意識の小人たちは、しっかりと受け止めてくれたと思っています。

娘が大きくなったら、その決定は本当に自由意志に基づくものなのか、聞かれるかもしれませんね。
私は、また君に出会うために何度生まれ変わっても同じ決定をするだろう、意味が分からなければ、Google先生にニーチェについて教えてもらいなさい、と答えようと思います。

では、またお会いしましょう。
友人からもお客さんからも、『本業は何?』とよく聞かれます。家族も、正直、私の仕事が何なのか理解していないと思います。

今は、デベロッパーで役員をさせて頂いていますが、不動産以外の資産も取り扱いますし、富裕層向けのコンサルもやりますし、ファンドも幾つか見ています。国内外の会社や事業の買収もしますし、買収先のPMIもしますし、M&A等の単なるアドバイザリーやデューディリジェンスもやります。また、お仲間と食品関係のブランドを立ち上げ、海外に出店したり、逆に、海外ブランドの日本進出のコーディネートもしています。

一応、何となくイメージが付きやすいかと思い、『ファンド屋です。』と答えています。本人としては『アレンジャー』というのが一番しっくりきますが、本人以外にはしっくりこないと思い、言っておりません。まあ、私にとって本質的な話ではないので、お茶を濁している感じです。

私のキャリアのスタートは銀行で、その後、証券会社に転職し、次いで、今のデベロッパーに至ります。
銀行は5年足らずで辞めてしまいましたので、本部での仕事は経験がなく、キャリアの中で一番長いのは証券会社ですが、ずっとストラクチャードファイナンスとM&Aでしたので、マーケットのこともあまり分かりません。

ただ、証券会社の時に、30代前半で投資先のショッピングセンターの館長的なポジションに就けて頂き、何十人ものメンバーと一緒に、アクイジション、資金調達からリーシング、販促、工事管理、地方公共団体やマスコミへの対応、ディスポジションまで経験させて頂いたのは大きな転機になりました。
また、今の会社で、自分の企画で子会社を作り、社長として運営させて頂いたのも大きかったです。こちらは、失敗に終わってしまいましたが、撤退戦も経験させて頂き、人生で一番苦しい時でしたが、お蔭様で、怖いもの知らずの怖さを思い知った反面、随分と腹も据わりました。

転機となった経験の中で学んだことは、自由の素晴らしさです。
権限があれば、権限の範囲内で、かつ、道理に適っている限り、自由に、チームを作り、自分達のアイディアを実現するためにリソースを使い、会いたい人に会い(勿論、相手が会ってくれればですが。)、無駄な会議を止め、発言し易いフラットな組織にし、ただ長時間働くことを美徳とするような文化を改めることができると分かったのです。

自由を勝ち取るためには、多くの努力を求められました。そして、自由を勝ち取ると、更に多くの努力を求められることも分かりました。しかし、自由の素晴らしさは、何物にも代え難いものだと心底思っています。

私には娘がいますが、娘にも、自由の素晴らしさを伝えたいと思っています。
自由は、与えられるものではなく、勝ち取るものであるということを。そして、自由を勝ち取るために、何をすれば良いかについて。

ドラマ半沢直樹の総集編を見て、在籍当時の銀行の空気感を思い出し、一緒に見ている娘が社会人になる頃にキャリアパスはどう変わっているのかに思いを致し、少し自身を振り返ってみました。

では、またお会いしましょう。

先日、お客さんと食事をしていたら、「お好み焼き定食ってあるらしいですね。」といわれました。


関西出身の私としては、当然ありまっせという感じなのですが、「ありますよ。」とお応えしたところ、よくある「炭水化物をおかずに炭水化物を食べるなんて考えられない」的な話の展開となりました。


私が、「炒飯でご飯を食べたりします(これは『じみへん』のギャグですが)。」、「私は学生の頃、よく焼肉丼でご飯を食べていました(これは本当ですが、単にご飯が大盛りになっただけです)。」と言いますと、まるで(地球外に留まらず)宇宙外生命体でも見るかのような目で見られました。


まあ、食文化の違いなので、賛否はどうでもよいのですが、議論の中で少し違和感を感じるところもありました。


私のイメージでは、お好み焼き定食とは、お好み焼きでバクバク白飯を食べるというものではなく、どちらかというと、『パスタにパン』に近いものがあります。お好み焼きだけでは、物足りないので、ご飯も食べたいというニーズに応えるものというイメージですね。お好み焼きが全くおかずとして機能していないとは言いませんが、おかずとしての機能は低いと思います。

(ただ、このお好み焼き定食とは、どちらかと言うとお店側の事情で作り出されたもので、食の好みから自然発生したのではないと私は思っています。関西では、お好み焼きは安価(300円から400円台)な庶民の食べ物で、三食にも補食にもなるのですが、三食にする場合は1枚だけでは物足りない人も多いと思います。関西では飲食店に対して要求する『お得感』や『満足度』のレベルが高いので、1枚の単価が高いお店が、1枚でも満腹感を提供するために導入したのではないかと思います。私が通っていた下町のお好み焼屋さんには、どのお店にも定食はありませんでした。)


うどん定食(うどんに(炊き込みご飯ではなく)白飯)やラーメンライス(ラーメンに(炒飯やチャーシューご飯等ではなく)白飯)の類も、お好み焼き定食に近いものがあると思いますが、お好み焼きよりは、うどんやラーメンの方がはるかにおかずとして機能していると思います。

(なお、ラーメンはラーメンでも、天下一品のラーメンは完全におかずです。)


これに対して、焼きそばは完全におかずだとおっしゃる関西の人は多いと思います。私の周りにも同様の方が多くいらっしゃいます。私が土曜日の昼に学校から帰ってきますと、母親がよくお好み焼きと焼きそばを買ってきていてましたが、「どっち食べるの?」と聞かれ「焼きそば」と応えると、当然のように白飯が一緒に出てきました。

また、関西ではおでん(関東煮と言ったりします)にジャガイモを入れることがよくありますが、このジャガイモも完全におかずです。

何が違うのかと言われれば、白飯に合うからとしか言いようがありませんが、白飯に合うからこそ、これ程までにおかずとして定着したのだと思います。



冒頭のお客さんとの会話の中で、「同じ『炭水化物+炭水化物』でも、お好み焼き定食と焼きそば定食は全く違う趣旨の定食なんです。」、「『焼きそばとご飯』とは、『唐揚げとご飯』みたいなものです。」と、私が声高に申し上げますと、北海道のお客さんから「ザンギ(唐揚げ)でご飯を食べるなんて、考えられない。」と言われました。

日本国内での食文化の違いは、意外に常識のレベルにおいて違っていたりするので、面白いですね。


なお、焼きそばは、JR西日本神戸線の立花駅直結のフェスタという商業施設にある『すずき』さん(尼崎市)の焼きそばが一番白飯に合うと思います(残念ながら、お店では白飯は出されていませんが。)。


それではまたお会いしましょう。