MSNニュースより転載します。

(転載ここから)

南京大虐殺:生存者が語る・・・最後の証言集会、東京で9日

◇市民団体の連絡組織「南京大虐殺60カ年全国連絡会」

 市民団体の連絡組織「南京大虐殺60カ年全国連絡会」が約20年にわたり毎年、中国・南京大虐殺(1937年12月)の生存者を日本へ招き、各地で証言集会を開いてきたが、今月上旬、大阪と名古屋、東京で開く3回で最後を迎える。来日に協力してきた南京大虐殺記念館(中国・南京市)が、生存者の高齢や健康不安を理由に終了を要請した。関係者は今後、現地での交流を呼び掛ける。

 今年は、陳徳寿さん(83)が5日に大阪、7日に名古屋、9日に東京で証言する。陳さんは当時、南京城内に住み、父やおばが日本兵に銃剣で刺し殺されたという。戦後の生活についても話す予定だ。

 連絡会は96年に最初の本格的な集会を開いた。以後も毎年、生存者を招いて10日間ほど各地で集会を開いた。招いた生存者は計30人以上で、川の中に隠れて生き延びた男性や性暴力を受けた女性らがさまざまな被害を語り、会場ごとに数十~数百人が聞いた。渡航や滞在費は、日本の市民カンパと入場料でまかなった。

連絡会共同代表の一人で「ノーモア南京名古屋の会」事務局の平山良平さん(67)によると、記念館とは「証言者が語る史実を定着させたい」との思いが一致していた。2001年に来日した女性は、平山さんら世話役にさえ笑顔を見せず、目も合わせなかった。「怒りを直接感じた。証言ビデオとは違う」と振り返り、証言集会が絶えることを惜しむ。

 生存者と事前に現地で会って招いてきた「銘心会南京」=大阪府=の松岡環代表(68)によると、年々、生存者が亡くなり、寝たきりになるなどしているが、話せる人は今も多い。01年からは会員らとともに現地で交流会を開くなど慰問に努めている。「本来は日本人が南京へ行くべきだ。地元で会って現状を見て、つながり続けよう」と呼び掛ける。【花岡洋二】
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E7%94%9F%E5%AD%98%E8%80%85%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E2%80%A6%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E8%A8%BC%E8%A8%80%E9%9B%86%E4%BC%9A%E3%80%81%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%81%A7%EF%BC%99%E6%97%A5/ar-AAfVcnZ#page=2
                    

これを読んで「懲りないなぁはぁ」と・・・。
ちゃんと裏がとれた証言であれは「証拠」になりますが、これまでも、そして今回来日する方も、証言は裏付けされているのかなぁ?
もしくは「事件の被害者、目撃者が嘘をつくはずがない」と信用しきっているのか・・・。
で、たぶん、この集会を企画した市民団体のみなさんは、日本のことが信用できないし、「日本がすべて悪かった」と信じ切ってるんでしょうねぇ。はぁ・・・

いや、まぁ、私も数年前そうだったんで、なんとなくわかりますがね。
この市民団体も、証言するために来日する人も「日本軍と日本兵は残虐非道」でないと困るんでしょうが、蒋介石の国民党や、共産党に比べたら、日本軍は“ややこ”赤ちゃんですわ。
Wikipediaより一例をご紹介いたしましょう。

≪黄河決壊事件≫

日中戦争初期の1938年6月に、中国国民党軍が日本軍の進撃を止める目的で起こした黄河の氾濫である。事件当時は黄河決潰事件と表記された。中国では花园口决堤事件(花園口決堤事件)と呼ばれる。犠牲者は数十万人に達し、農作物に与えた被害も住民を苦しめた。

堤防の破壊準備

国民党軍は本拠を三劉寨付近に置いて5月頃から住民の交通を遮断し、黄河本流が河岸に激突する場所に内径10メートル、深さ15メートルの穴を掘り、これを互いに横坑で連結して爆破する準備を行ったが事件後にも未完成で爆破されなかった穴が数個残っていた。開封北方の堤防上では溝を掘って増水期に自然に決壊するように準備されていた。堤防破壊の準備作業は5月下旬から確認されており国民党軍は1個師団の兵に加えて付近の農民を強制して作業を行っていた。

洪水
商震将軍は蒋介石から日本軍前衛部隊の背後を突く形での堤防爆破を命じられたが、国民党軍の撤退が終わるまで爆破を延期していた。この間、蒋介石は爆破が行われたかについて何度も問い合わせを行っている。

6月7日には中牟付近で爆破が行われたが、この作業は失敗し、場所を花園口に変更して作業が進められ、6月9日午前9時に作業が終了し黄河の水は堤防の外に流出した。氾濫は河南省・安徽省・江蘇省にまたがる54,000平方kmの領域に及んだ。

水没範囲は11都市と4000村に及び、3省の農地が農作物ごと破壊され、水死者は100万人、被害者は600万人と言われるが被害の程度については諸説ある。

日本軍の対応
国民党軍は開封陥落直前に約8kmに渡って黄河の堤防破壊を行い、雨期に入る開封一帯を水没させた。6月9日に続いて6月11日夜にも隴海線中牟の西方20Kmの地点で黄河の堤防3ヵ所が破壊され、2、3日前の雨で増水した水が堰を切って奔流しつつあったため、12日午後5時に日本軍の2部隊が堤防修理に出動し、開封治安維持会からも50名以上が自発的に応援に出た。洪水は中牟を中心として幅約20Kmにわたり、5m弱の高さを持った中牟城壁は30cm程度を残すだけとなった。幸い線路が高い所に位置していたため、住民は線路伝いに徒歩で東方に避難した。日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともに救助活動を行い、同時に氾濫した水を中牟付近から別の地域に誘導するために堤防と河道を築いた。この惨状の中で日本軍には犠牲者・被害共にほとんどなかった。

懲りないねぇ

国民党軍は現場に近づく日本軍に攻撃を加えたほか、日本軍が住民と共同で行っていた防水作業を妨害した(日本軍の地上部隊は住民とともに土嚢による防水作業を行い、日本軍の航空機も氾濫した地区において麻袋をパラシュートにより投下してこれを支援したが、決壊地点の対岸にいた中国軍遊撃隊が麻袋の投下開始直後からその航空機と地上で防水作業中の住民に激しい射撃を加えたこともあった)。

日本軍に救助された避難民は開封方面1万、朱仙鎮、通許方面5万、尉氏方面2万、その他数万であった。
                                           Wikipedia - 黄河決壊事件

所説はあるものの、「水没範囲は11都市と4000村に及び、3省の農地が農作物ごと破壊され、水死者は100万人、被害者は600万人」って凄くないですか?ブルブル
この黄河決壊によって河の流れが変わって、河南省では干ばつがおき、飢饉が発生。凍死者や餓死者が溢れたそうです。
それでも国民党側の挑発(強制的な食糧調達)は止まず、農民たちは軍糧を放出して被災者を救ってくれる日本軍へ心を寄せていく結果になりました。
日本軍も徴発していましたが、ちゃんと代価を払っていたので、農民たちからは歓迎されていたそうですし、日本兵も余計な敵を作らないために、一般市民や農民には礼儀正しく接していたようです。そうすれば協力的になってくれて、結果的に生存率を上げることになるんだとか。

さて、国民党は共産党員や進歩的人士も処刑しています。その数は10万以上ともいわれていますが、毛沢東の揮毫による記念碑には、『国民党政府在雨花台曽経屠殺了三十万共産党烈士』(30万人が国民党によって殺害された)とあるんだとか。(30万って数が好きなの?)

懲りないねぇ

   ↑ 雨花台公園の人民英雄碑

汗一例でも規模が違いますよね。
中国大陸の歴史は“一朝一乱”といわれる戦いの歴史で、古くから「堅壁清野(けんぺきせいや)」と言われる焦土作戦を戦法として用いてきた国なんです。
だから国民党軍や八路軍が、敵に取られるものがないように、略奪、放火、強姦、殺人をしていたわけです。それが彼らのやり方だったんです。ひぇ~

さぁ、今回来日される方は「家族、親せきを日本兵に殺された」そうですが、当時5歳ですよね。日本兵なのか、国民党軍兵士なのか、はたまた匪賊なのか、しっかり見分けがつくんでしょうか?
以前ブログで紹介した写真の数々をみると、南京事件どころか、本当に戦争してたの?と疑いたくなるんですよね。顔

なんとなく「虐殺はあった」で思考停止している方は、中国式戦法(堅壁清野)を知ってください。
そして終戦まで中国大陸で普通に生活した日本人の話や、当時撮られた、撮影場所や撮影者が分かっている写真をみて、虐殺肯定派の矛盾に気づいていただきたい。



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