12月5日、いよいよ『海難1890』が公開されます。
あぁ、観たい!観たいから日本に帰りたい!

『海難1890』は、日本とトルコの友好125周年を記念して合作で制作された映画です。

1890年に起きたエルトゥールル号遭難事件と、1985年のイラン・イラク戦争勃発時に、テヘランに取り残された日本人救援のため、トルコ政府が救援機を飛ばして救出した出来事の顛末が描かれています。



この予告編見ただけで涙ぐんでしまいます。うっ・・

「エルトゥールル号遭難事件」はインターネットのお蔭でご存じの方も多いと思いますが、念のため、説明いたします。
Wikipedia-エルトゥールル号遭難事件より一部抜粋して、引用いたします。

〈ここから引用〉

エルトゥールル号遭難事件(エルトゥールルごうそうなんじけん)とは、1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル(Ertuğrul Fırkateyni)が、現在の和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し500名以上の犠牲者を出した事件。

遭難
エルトゥールルは出港以来、蓄積し続けた艦の消耗や乗員の消耗、資金不足に伴う物資不足が限界に達していた。また、多くの乗員がコレラに見舞われたため、9月15日になってようやく横浜出港の目処をつけた。そのような状況から、遠洋航海に耐えないエルトゥールルの消耗ぶりをみた日本側が台風の時期をやり過ごすように勧告するも、オスマン帝国側は、その制止を振り切って帰路についた。
9月16日21時ごろに、折からの台風による強風にあおられ紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突、座礁したエルトゥールルは、機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし22時半ごろに沈没した。これにより、司令官オスマン・パシャをはじめとする600名以上が海へ投げ出された。

救難活動
樫野埼灯台下に流れ着いた生存者の内、約10名が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりついた。灯台守は応急手当を行なったが、お互いの言葉が通じず、国際信号旗を使用して、遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦である事を知った。通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。この時、台風により出漁できず、食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、生還することが出来た。その一方で残る587名は、死亡または行方不明となり、大惨事となった。遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長の沖周(おき しゅう)に伝えられた。付近を航行中だった船に、大島港へ寄港してもらい、生存者2名が連絡のため神戸港に向かった。神戸港に停泊中だったドイツ砲艦「ウォルフ」が大島に急行し、生存者は神戸に搬送、病院に収容された。沖村長は県を通じて大日本帝国政府に通報した。知らせを聞いた明治天皇は、政府に対し、可能な限りの援助を行うよう指示した。各新聞は衝撃的なニュースとして伝え、義捐金・弔慰金も寄せられた。

送還
日本海軍のコルベット艦、「比叡」と「金剛」が、遭難事故の20日後の10月5日に、東京の品川湾から出航、神戸で生存乗員を分乗させ、翌年の1891年1月2日にオスマン帝国の首都・イスタンブルに送り届けた。

遭難事件後の日土関係
エルトゥールルの遭難はオスマン帝国内に大きな衝撃を呼んだが、アブデュルハミト2世のもとでは人災としての側面は覆い隠され、天災による殉難と位置付けられ、新聞で大きく報道されるとともに、遺族への弔慰金が集められた。またこのとき新聞を通じて大島村民による救助活動や、日本政府の尽力が伝えられ、当時オスマン帝国の人々は、遠い異国である日本と日本人に対して、好印象を抱いたといわれている。

〈引用ここまで〉
※後日オスマン帝国から治療費の清算書の要請が和歌山県宛にあったそうですが、治療にあたった3人の村医者は、始めから薬価治療費を請求する気はなく、ただ負傷者を助けたい一心で従事したので、全額遭難者に寄付して欲しいと、対応にあたった県書記官に手紙を送っているそうです。

私がこの遭難事件のこと、イラン・イラク戦争勃発時の逸話を知ったのは2011年です。
まったくもぅもうっ 日本のメディアは「国民の知る権利」や「報道の自由」と言う割に、「報道しない自由」をよく行使しますよね。むむー

できるだけ多くの方にこの映画を見ていただき、日本とトルコとの絆の深さを感じでほしいですね。
+トルコへの御恩も忘れはいけませんね。
そして、遭難事件当時の日本人の行い、思いを知るとともに、テヘラン残留邦人救出劇の「どうして日本が日本人を助けられないのか?」を考えるべきはないでしょうか。

ええ、一言で言うと、憲法9条の“おかげ”です。
思い起こしていただきたい。テヘランの残留邦人の時だけじゃないですから。汗
竹島周辺で操業していた漁師さんたちが死傷され、竹島奪われましたが、何もできませんでした。
ペルー大使公邸で邦人人質事件が起きましたが、助けにいけませんでした。
北朝鮮による邦人拉致が発覚しましたが、取返しにいけません。
PKO活動の自衛隊を護衛していた外国部隊に死傷者をだしても、何もできません。
アルジェリアで邦人が殺害され、ISに人質とられましたが、情報すら手に入りませんでした。
何か起きるたびに、「どうしよう」を繰り返してきた戦後日本です。
そのたびに「政府は何してる!情報収集がなってない!」と大騒ぎして、足の引っ張り合い。
何が起きても同じ口で憲法改正反対!情報機関設置反対!各国間で安全保障をはじめとする重要情報を保護する特定秘密保護も反対!安保法制にも反対!とにかく反対!なんでも反対!でも平和にしろ!邦人守れ!ですから・・・。
一体どうしろと・・・ちーん

国(政府)が自国民の命と財産を守るのは当然の義務ですし、有事の際、海外の自国民を救うことも「当たり前」です。でも、30年前、日本はそれができなかった・・・。
 ※現在は自衛隊法が改正されて、有事の際は相手国の承認を受けて、政府専用機や護衛艦で邦人輸送が可能になりました。

「30年前の日本政府酷いよね」ではなく、日本政府が国民の命を救えないようにしている憲法が異常で、その憲法を断固として守ろうなんて姿勢も異常なんだと気付いて欲しいです。


さてさて、日本以外でこの映画を観ようと思えば、トルコに行くしかないんでしょうが・・・。
トルコ語が分からない。チーン
それにロシア軍機のことがあったし、映画鑑賞、観光どころじゃないですよねぇ。どよーん・汗

DVD発売まで待つしかないですね。
あぁ、日本に帰りたいなぁ。はぁ・・・


                            (参照元)Wikipedia - エルトゥールル号遭難事件
                                  『海難1890』公式サイト     




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