当時、京都に住んでいました。

前日まで西本願寺では大法要が営まれており、それが終了するまでは土日も関係なく仕事でしたので、17日は久々の休みでした。だからその日は遅くまで寝ようと思っていたんですが、ふと目が覚め、時計を見ると「あれ眠い まだ5時45分だ。もうちょい寝よう。」と思った瞬間、地鳴りのようなものがかすかに聞こえ「地面ってこんなに揺れるの~パニック」というくらいの横揺れが!

起き上がることも出来ず、とりあえずベッド横のクローゼットから物が落下したら大変!ということで布団を被りました。それぐらいしか出来なかったんですよね。

東日本大震災に比べれば、揺れている時間は短かったと思いますが、そんな時は長く感じます。

布団を被り“うわぁぁぁぁぁ”と声にならない声を出しながら「上の階が潰れたら私 死ぬわ真っ白」とも思っていました。


1995年1月17日午前5時46分


その日はほとんどテレビを見ながら過ごしました。

早朝に起きた地震でしたので、西本願寺ではお昼頃には物資を持った救援隊第一陣が神戸に向かって出発しました。他の宗教団体も同様だったと思います。

翌日は早速各部署に毛布やカセットコンロの提供が呼びかけられました。男性職員は数グループに分かれ、各日で神戸に向けて救援物資を運び支援活動を続けました。

同じ部署の大先輩から聞いた話ですが、地震で寸断された道も多かったため渋滞が凄かったそうなんですが、支援物資を運んでいると説明すると「支援物資運んではるから、本願寺さんの車 通したって!」と呼びかけてくれる人もいて、道を開けてくれた人も多かったと。

その大先輩は「日本人はまだまだ捨てたもんちゃうで!」と言っていたのが忘れられません。uru+.

そして忘れられないのは、普段見ない超大型のトラックが国道9号線を往来していたこと。大変さを感じました。

それから当時の部署が自衛隊の駐屯地に近いところにあったためか、ヘリコプターが職場周辺上空をよく飛んでいました。聞いた話では神戸やその周辺だけの火葬場だけでは火葬が追いつかないため、京都へもご遺体を運んで火葬場へ搬送していたとのことでした。


阪神・淡路大震災は当時の村山首相や他の政府関係者が「初めての経験で」と言ってしまうほど大規模な震災で、官邸、政府、県、自衛隊、警察、消防隊等の対応の不十分さが浮き彫りになった出来事でもありました。また「危機管理」の甘さが指摘されました。

この時の問題点は確実に改善されてきていると思います。まぁ、それでこそ日本人なんですが。

但し、復興住宅での孤立、孤独死の問題が残ったり、震災前の人口に戻っていない地域もあったりと「完全な復興」はしていないそうです。そしてどうしても風化していきますので、どうやってこの地震を語り継いでいくかが課題だそうです。



アイルランドでは天災はほとんど無縁といっていいため、私も段々自然に対する「危機管理」が甘くなっています。うーん

けど、2年毎日本に里帰りするつもりですし、活断層をよけて生活することなど不可能で、台風や火山活動も無視できません。それこそ「いつ、どこで」災害が起きるか誰にもわかりませんし、どこでも起きる可能性がありますので、この震災の20年目の節目のこの機会に当時を思い出し、犠牲になった方、被災した方に想いを馳せたいと思います。

阪神淡路大震災でお亡くなりになった6,434名の方とご遺族に、心より哀悼の誠を捧げます。

                                                        (Mrs.G)





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