la comedie humaine

la comedie humaine

なんだか毎日喜劇。「主役みたいなセリフを言うひとがいなくても、物語を変えるのは演じているみんな。それに人によって主役のセリフなんて違うしね。普通にポロッと出た言葉が意外とかっこいいのさ」ですって◎

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『友達はいいもんだ』を歌う度にこみ上げていた。その次に来たこみ上げソングは『巣立ちの歌』。こういう癖はなかなか治りはしない。歌を信じる。他のいろいろにケチをつけても、歌には従う。「大人にーなあってもー忘れはしない……♪」と聴くと本当に信じてきたんだなあと思う。

そして、どんな"キレイごと"にでも耳を傾けてくれて、一緒に歌ってくれるひとのおかげなんだなあ、すごいなあと思う。

今年3月、あの混乱の中で、『聞こえる』が教えてくれたのは、曲の最後の「教えてください」の気持ち。昨夏、この歌の背景のずっと後に生まれた半分母校の後輩の歌が残っていた。http://t.co/17OLUsB

この夏のコンサートでは今年の課題曲『僕が守る』を歌っていた。 http://t.co/YZNnEyx  「生きる理由がわからないというなら、その理由を僕があげよう。君がいなくなると僕は困る」 

ぼくが歌を信じるのは、きれいごとを実現したいから。

20110829
hidechu

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「やまももしいさん」
母とそう呼んでいる。

確か喜笑さん?、おめでなたいお名前だったけどよくわからない。

こっちに越してきてもうずいぶん経つ。
敷地のなかのやまももを毎年わけてくれる。シロップにしてお酒やジュースでいただく。

季寄せには楊梅。モモじゃなくてウメじゃん。去年いただいた青梅は立派だった。白の産毛つつまれた手触りと匂いは絶品で、最高の梅干しができた。大事に食べているからまだすこし残っている。

それにカリンもいただくからやまももウメカリンさんかな。

やまももじいさんは独り暮らしで、母も時々おすそ分けを届ける。

はたけのミサワさんハギワラさんファミリア、602の気前のいいおっちゃん、それにやまももじいさん。
ぼくの近所づきあいはこのくらい。じいさんばあさん。

地震の翌日に帰宅して、「平気ですか」って声かけたら、ご家族の方が来てた。

最後に会ったのはこのときだった。

4月くらいだったかな。よくわからない。
凭れかかるくらいの立葵、その下にはひっそりいちご。

母も知らなかった。

昨日みたら、「きれいに」なってた。なかった。やっぱ、やまももじいさんだったんだなぁ。


なつかしい黄色。

 

あれ、メローイエローって飲んだことあったっけ?

 

「骨が溶けるから飲んじゃだめ」

 


この言説って今でも有効?

 


250→350→500、ジュース大好き倍増計画。


甘さ控えめ、カロリー少なめ、増やすぜ人工甘味料。どんどん溶かすぜ、君の骨。


やせる美意識、溶ける無意識。

 



coca, parce que je le veux bien. // んで美味しくいただきました。ありがとうコカ・コーラ。

 



どうしてだまって飲めないの?飲むか、しゃべるかどっちかにしておくれ。



―――げふ


 


 ソーダ水 呼吸は風となりにけり

 

 口からの一陣の風ソーダ水

 

 一陣の風となりたるソーダ水

 

 ソーダ水すこし遅れて風生るる

 

 肺の奥より一陣のソーダ水

 

という推敲。

 

ぼくが生きるのに費やす時間というのはこういうものなのだと思う、「ずっとげっぷがでてまして…」。





20110713

fm hidechu噯。



public beliefs are charaterised as a mix of both neative and positive associations with certain technology, rather than n/p or accurate.



where is myfeeling in conceptof'risk'? Risk not only conceals the emotional facet of danger,but also obscures the valueladen nature of choices.

seeing is not understanding.something visible(light/image of fukushima/powersavings)has deepened the understanding,if not consistent



東京に溢れる「節電に協力のため……」の文字。「節電」という大前提、「協力」する対象の不在、これを疑わぬ/説明できない思考体系。16週間の思考の停止。


i want correct answers&conclusions that dont exist anymore. passive attitude will destroy this society. all i need more hypothesis--.



ce n'est pas une solutionこたえ, autant que la reponseこたえ est toujours celle de qqn.



「がんばろう日本」には含まれるが、「原発はみんなの責任」には含まれない「わたし」。もしくは、そのどちらにも含まれたくない「ぼく」。


「みんな」という論理の飛躍、もしくは思考の空白。「選挙で選んだ『みんな』の責任」は後者。


林京子氏「私は1945年8月9日に被爆したひとりの被爆者の目 で、大震災後、原子力発電所の事故をみてきました。今、感じるのは全身が震える程の絶望と憤怒、落胆です。ああ、この国は確かに被爆国であった。なのに何 も学習してこなかったのだと。」(20110622日経夕16)


2011年3月11日以降、過去に目を向けない社会にあって、この4ヶ月「何も『学習してこなかった』のだと」思ってはばからない。5年たったら特需がきて、無責任の体系を維持し……の繰り返し。


「わたし」とか「みんな」ということばの使い方にどうしてもツッコミたくなるのは、それがヒトの「いのち」の取り扱い方を表しているから。


● <-- it's not you. but scientists(et le japon) assume that subjectivity is comme ca; "tabula rasa", il y va de la vie.

http://twitpic.com/5lvmhl


「私たちはこうして原発を選んだ――『核』論増補版」
せっかくの良書を、タイトルが台無しにした例。

原発はみんなの責任ではない。「私たちは・・・」の思考が、無責任の体系をつくりだす。


世間の受け止め方。 経済学は現象を経済として説明する。 こちとら、現象を社会の知識理解として説明する。 ほんとはもっとよろこびを見ていたいのだけど。 安心が記事にならずにリスク/危機感/不安が記事になるもので。


Comme tous les concepts, toutes les connaissances sont invisibles. On va donc emettre ce que l'on saisit, en faisant du bruit visible, celui de la formule, de la langue, de la couleur, ou du son. L'idee a besoin de vision, sinon je serai disparut.

20110617
hidechu