ソーシャルワーカーこまりです。
先日、親戚の伯母さんから連絡がありました。
『四国八十八カ所、逆打ちして色紙作ったんだけど、あんたにあげようと思って。』
こちらが伯母さんが作った散華色紙。

専用の額縁もお寺で売ってるらしいよ。
そうきいたので
とあるお寺にあるお遍路用品販売店に行きました。
結果としては、そこには額縁はなく、専用の額縁も
『お寺と手を組んだ業者が扱っているもので我々お寺の近くにある売店は一切関係ない』
ということでした。
私は額縁があるかどうかがききたかったのと、あればどれくらいのお値段なのかがわかればよかったのですが
売店にいた『自称』僧侶の資格を持つオッチャンからは色々なうんちくを聞かされました(´д`)
オッチャンの言い分についての私の解釈。
そもそも、こんなものはご利益なんてない。金儲けの為にお寺が企んだ商戦に参拝者がのせられているだけ。逆打ちはそもそも罪人のすることやからご利益なんてない。(※逆打ちの由来についてはお遍路さんならご存知の逸話があるのです)つまり、そんな色紙には値打ちない。寺は駐車場代金も取ったりして金儲けをしているのが気にくわない私の考えはというと。八十八カ所回る、ということに時間、お金、労力をかけて伯母さんが作った色紙にはそれだけで『値打ち』がある。逆打ち由来の『右衛門三郎』の行いは確かに『過ち』だったかもしれないけど、じゃあ、私自身が過ちを犯さなかったり、間違いを絶対しないことはない。過ちを悔いて逆打ちという過酷な旅に出た右衛門三郎だからこそ逸話にもなったんじゃないか。この色紙の値打ちや大事にするか、せんかは、私が決めること。お寺の駐車場代金やその他諸々、参拝でかかるお金は確かにお寺の『儲け』の手段かもしれんけど、参拝する人が納得して気持ちよくお金を払っているならそれでよし。お寺だって維持したり修繕したりするのにお金は必要だもの。お寺にお金が集まること自体に良いも悪いもない。結局、額縁屋さんで額縁は探すことにしました。しかし私的には『自称』僧侶のオッチャンから予想だにせぬネガティブな言葉がたくさん発せられたことにびっくりでした。言葉って、大事だとおもいます。そのことを改めて考えることになったエピソードでした。たまたま今日は前に書いたブログやFacebookでの投稿を見直していて、自分や『お友達』の言葉なんかを見ていました。やっぱり自分の想い、願い、やりたいことは自分の言葉で発信するこれに尽きるとおもいます。時々、他人の発言や表現をあたかも自分の言葉のように発信している人がいます。若干、私も『パクられたかな?』と思わなくもない経験をしたことがあるのですが…そんなパクリのメッセージには気持ちが乗っていないので、すぐボロが出ます。良いも悪いも自分の言葉には心がこもります。まさしく言霊そう、今年のチャレンジその⑧は自分の言葉で自分の想いを発信する!大切にしようとおもいます。聴く、話す、振り返ることでケアする人は元気になれる!ケアする人が元気になれば福祉はもっと面白くなる!