ミシェル公52 | コラム・インテリジェンス

コラム・インテリジェンス

透き通るような…心が…ほしい

天候が不安定でも、

我々の精神だけは

それになんら影響されることもなく、

 

晴れの日は晴れの日なりに、

そうでない日もそれなりに、

 

人生を快活に心地良く

過ごしてゆくという気構えが

肝要であるかのようにも思われなくもないのです。

 

「自分が過去に怒りすぎたこと、そのためにどんなに逆上したかを思い出す人は、その怒りの感情の醜さを理解して、いっそう正しい嫌悪をいだくようになる。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))

 

怒(いか)りという感情とか、

怒(おこ)るという情動は、

醜いものであるとも思われます。

 

そのことを思い出し、

 

過去に自分がそのような情動を

いだいてしまったことを恥じ、

 

反省することができれば、

 

自分の怒りという情動を、

正しく嫌悪し、

 

自分の怒りという情動に対して、

賢く、柔軟に、「まあ、いいか」

というくらいの寛容を

 

身に付けていくことが

できるのかとも考えられます。

 

「肉体的な快楽は苦痛と同じく、精神と肉体の両方に作用し、いっそう正当で強力である。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))

 

性的快楽は、精神にも肉体にも関わるので、

人生における人間の自然な営みとしては、

いっそう正当であり重要でさえあるとも

思われなくもないのです。

 

一方、肉体的苦痛は、

ただただ苦痛なだけであって、

何の意味もなく我々の精神をも

痛めつけるだけであり、

 

性的快楽が正当な善であるのなら、

肉体的苦痛は正当な悪であると

受け止めても問題はない

のかとも考えられます。

 

「なかには気難しい愚かさや野心から、肉体的快楽を遠ざけようとする人がいる。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))

 

衣食住・睡眠・排尿・排便等々の快楽にくらべ、

性的快楽だけを避けようとする人々は、

 

愚かな気難しさとか、

なんらかの誤謬(ごびゅう)による野心に

とらわれているといえるのかも知れません。

 

「自己を緩め、気さくに振舞える人は、力強く気高く、きわめて尊い。」

(「エセ―」ミシェル・ド・モンテーニュ))

 

周囲から、

どう思われたいとか、

どう見られようとかを捨て、

 

自己を緩め、もっと気さくに、

もっと柔軟に、もっと優しく、

 

もっと自然に振舞えるように

意識するだけで、

 

自己をより高め、より楽ちんに、

より尊く生きることができるような、

気もしないでもないのです。