なんだかんだと言ったところで、
この国は
平和であるのかも知れません。
自分の国が、
平和であるのかそうでもないのか、
その観じ様によっても、
それぞれの才と
知性品性感性が表出して
くるようにも考えられます。
アタリマエに、
才と知性品性感性は、
その人の知識と経験の
質と量に、
影響されてくる
だけのものであるとも
思われなくもないからなのです。
「憎しみは、けっして善でありえない。自分の憎む人間を我々は、滅ぼそうとする。この時、憎しみは善でありえない。」
(「エティカ」スピノザ)
ひとを憎んでも、
いや、ひとを憎まないのが
一番なのでしょうけど、
万が一、ひとを憎んでしまっても、
その相手を
滅ぼそうなどと思わなければ、
それは善の範疇に収まっている
ということなのかも知れません。
「嫉妬、嘲笑い、軽蔑、怒り、復讐、その他憎しみのもとに総括されるもの、あるいはその憎しみから生じる諸感情は、悪である。」
(「エティカ」スピノザ)
やっぱり、
どのような情動であろうとも、
その大元が憎しみから
派生している情動であるのなら、
それらはすべて悪
と看做されてしまうようです。
僕の生い立ちは
複雑であって、
それゆえに、その生い立ちに、
世間に、社会に対して、
ある種の憎しみをもって、
それを原動力、エネルギーに
変換して、なんとか今日まで
生き延びてまいりました。
が、やはり、
僕の情動は、すべて
悪であったようなので、
僕の思いもすべて
悪であったのかも知れません。
「我々が憎しみに動揺し、それが動機となってつとめて求めるものは、何事も非礼である。」
(「エティカ」スピノザ)