「恥を知れ」という言葉は
「己を知れ」という言葉に通じるようです。
また
「己を知れ」という言葉も
「恥を知れ」という言葉に通じてゆく。
己の立場、己のスキル、己の経験を知れば、
己の立場を悟り、
己のスキル・アップの重要性を自覚し、
人は皆、経験不足なのだから
人は皆、毎日毎時間が初心者であるのだから、
己の経験不足を知れば、
他者を敬(うやま)い、
他者の尊厳を重んじ、他者を尊敬し、
他者を労わる心も、より美しく、より繊細に、
自らを輝かせ始めるものかとも思われます。
「己を知る」は
恥をかかぬための極意であったのかも知れません。
「『君の名は。』を観ていても思いますが、あの映画で再現されている世界観は、やっぱり昭和がつくったインフラの世界観なのです。」(「ニッポン2021-2050データから構想を生み出す教養と思考法」落合陽一×猪瀬直樹)
ここですべての方々に
申し上げておきたいのは、
「君の名は。」と「君の名は」。
どうして同じ昭和の名作に
「。」を付けてパクったようなことをするのか。
そこに創意創造性の欠片も見いだせないのです。
関係者の意図が分かりません。
少なくとも、昭和の途中までは、
このような行為は卑劣、情けないという評価を
得ていたようにも思われなくもないのです。
「日本は何を見せていくのか。日本の近代化の歴史や風景なのか。それとも日本の未来なのか。キャラクターコンテンツ盛りだくさんのジャパンが、私たちが本当に発信したい日本なのでしょうか。
この問いはすなわち、近代日本とは何か、近代を乗り越えるとはどういうことなのか、ということに結び付きます。」
(「ニッポン2021-2050データから構想を生み出す教養と思考法」落合陽一×猪瀬直樹)
情けないのは、わが国には、
伝統文化を進化または昇華させたような
文化・情景・作品群が存在しないということなのかも知れません。
大切なのは、わが国には、
「君の名は。」などと
「君の名は」と紛らうような感性、
クリエイティブ、創意才能、努力が、
まったく花開かぬ状況しか見えてこないということなのかも知れません。
日本人が、日本の若者が、
日本のマンデルチーゲルを知らず、
ブリオッシュパンだイタリアのマリトッツォだ
挙句の果てにはアソートだシャトレーゼだときたもんだ。
日本人が、英語も、イタリア語もフランス語も
話せぬ書けぬ聞き取れぬのに、なぜか
和菓子洋菓子等々をスイーツと呼び、なぜか
マンデルチーゲルの本高砂屋を知らずに、
ゴディバだセバスチャン・ブイエだと言っている国民に、
何かを海外に向けて、自信をもって、自負をもって、
矜持をもって、発信できるシロモノなどはせいぜい
マンガ・アニメ・ゲームくらいのものなのかも知れません。
が「漫画とアニメが自慢」
という国民で恥ずかしくないのかどうか
という問題も残されているようにも思われるのです。
「日本のシンボルになっている心象風景といえば何かというのが問題なのです。」(「ニッポン2021-2050データから構想を生み出す教養と思考法」落合陽一×猪瀬直樹)