コロナも愚鈍な総理も、
保身とカネだけの政治家も、
アタマ悪すぎのくせに人間スキルまで低すぎる官僚も、それらいっさいは我々のなかにだけ存在するのであって、それ自体で実際に存在しているのか、はたまた我々が思っているような存在現象であるのかどうかさえわからない。
コロナも愚鈍な総理も、
保身とカネだけの政治家も、
アタマ悪すぎのくせに人間スキルまで低すぎる官僚も、それらいっさいが我々の認識においてだけ存在するのだとすれば、それらいっさいは、我々がとぼけて認識していないフリをしてしまえば実際にはどうってことなく、生きているのか死んでいるのか、コロナが有害なのかそうでもないのか、そこのところさえわからなくなって、案外楽ちんに生きていけるのかも知れません。
「カントは、
物それ自体は空間・時間の中にはあり得ない
という結論に至った。
カントは、
『我々が言いたかったのは、存在とは、およそ我々の直感と現象についての表象にほかならないということである。
つまり我々が直感する事柄は、それ自体としては我々が直感しているとおりのものではないし、様々な事柄の関係も、それ自体としては我々にとって現象しているのと同じ在り方をしているわけではない。
したがって我々という主体を取り除いてしまうか、あるいは我々の感覚という主観的性質だけでも取り除いてしまえば、実態が空間・時間のなかでもっているあらゆる性質や関係は消えてしまうだろうし、そればかりか空間・時間それ自体すらもまた消えてしまうだろう。
それらのいっさいは現象であって、
それ自体として存在するのではなく、ただ我々のなかにだけ存在するからである。』と述べている。」
(「なぜ世界は存在しないのか」マルクス・ガブリエル)
すべてはフィシス・ノモスに由来するようです。
宇宙・地球・自然の有様は、
我々の感覚と概念によって考え出されたもので、現実の宇宙・地球・自然の有様は、我々が思っているものとはかけ離れている場合もあるということなのかも知れません。
「世俗な哲学者たち16」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12631388385.html
ガブリエルは
カントにまで懐疑を向けているのかも知れませんが、
僕はカントはカント、デカルトはデカルト、モンテーニュはモンテーニュ、そしてガブリエルはガブリエルとしての思想・思考として、すべてを有難く受け入れてしまうのです。
「哲学は、この世界全体とは何なのかという問いに、学問的に取り組んできました。
このような問い、すなわち
人間が生きていることの意味への問いを立てるという課題が哲学にはある。
哲学は、私たちが皆罪人であるとか、神が創造した物質であるとかの前提は立てない。」
(「なぜ世界は存在しないのか」マルクス・ガブリエル)
常にナチュラル、
常にフラットな思考を展開するためには、
哲学は有用であるけれども宗教は邪魔になるとも考えられるのです。
「私たちは自分が無知であることを認める恐怖から逃れるために、無意識のうちに、自分はまるっきりの無知ではないと思い込みたがる傾向にある。
フランスの精神分析学者ジャック・ラカンは、これに関して的確な公式を導入した。
すなわち『知っていると想定される主体を人間は常に必要としている』という公式である。
『知っていると想定される主体』とは、無知な人々が自らを擁護する砦にすぎない。」
(「なぜ世界は存在しないのか」マルクス・ガブリエル)