リハビリに来てくれている
理学療法士と介護士はいつも
笑うだけ笑いまくって帰りに「いや~、いい運動になった」と漏らして帰っていきます。
「おもしろきこともなき世をおもしろく
すみなすものは心なりけり」
「もうろくすごろくどこへ行く」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12534120737.html
すみなすものは心なりけり」
「みずてん」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12534119595.html
面白くもない、
小難しい学問を極めるのは、
すべて己の心意気次第であるのかも知れません。
「存在言明は、肯定であれ否定であれ、常に何らかの意味の場にだけ関わっているのであって、けっして一切の意味の場に関わっているわけではないし、ましてや一切を包摂する意味の場に関わっているのでもない。
つまり、一切を包摂する意味の場など存在しないからこそ、存在するということは常に相対的であり、つまり何らかの意味の場に関わってこそ言えることなのである。」
(「なぜ世界は存在しないのか」マルクス・ガブリエル)
誰かが何かを主張する場合に、
それは常に、他の何かにも関わっていることを
視野に入れた発言でなければそこに真はない。
そしてすべての発言は、
けっして一切の、すべてに関わっているとも限らず、
ましてや一切を、すべてを包摂、すべての物事を含んだことに関われるわけもない。
つまり、すべての物事を考慮に入れた発言などは存在しないし、「存在」そのもの、「存在する」ということは常に相対的であり、相対的であるということは、何かが何かに関わって初めて相対と言える。
一人一人の人間は知性も経験も想像力も違う。
植物でも動物でも土でも水でも、
それぞれにそれぞれの特性がある。
それらの事実を俯瞰して、すべてを含んだ、すべての概念をも考慮に入れた主張であったり概念であったりなどはあり得ない。
なので地球という実態も概念さえもあり得ない。
ゆえに「世界は存在しない」となるのかも知れません。
『ここまでで判明したことは、
「現実に存在しているもの」と「現実に〈だけ〉存在しているもの」、そして「単に想像されたもの」と「単に想像の中に〈だけ〉存在しているもの」さらには「想像の中にも現実にも存在しているもの」と「想像にも現実にも存在が確認できないもの」の区別が、意味の場によって変わってくるということなのです。』
(「なぜ世界は存在しないのか」マルクス・ガブリエル)