春の匂い | コラム・インテリジェンス

コラム・インテリジェンス

透き通るような…心が…ほしい

「春の匂い」といっても、
草花の香りとか、風の匂いとか、
そのようなロマンチックなものではなく、
 
なんとなく感じる、温度湿度による生理的感覚とか、
何となく感じるウキウキドキドキ感。
 
「木の芽どき」とか「啓蟄」とか表現される感覚。
 
この感覚が「春の匂い」として感じることのできる裏側には、
それこそ善的なものと悪意というものも含まれているのかもしれない。
 
善的なものとしては、人や自然に対して優しい気持ちになれるとか、
はたまた物事に対してはポジティブに接するようになれるとか・・・
 
そのパラドックスに、悪意に満ちた挑発だとか、
挙句の果てにはとんでもなくも愚劣な痴漢という行為・・・
 
許されざる悪意は、そもそもが「許されざる」なのだから、
考えに及ばずということで切り捨てるとしても、
 
さらにもどかしいのは、優しさの飽和による人を恋する感覚。
 
「木の芽どき」とか「啓蟄」を、
この感情の表現として捉えられた人は、
幸であり安であり寧であるのかもしれない。
 
が、一方で、「木の芽どき」「啓蟄」を
悪意のふくまれた感情の表現として捉えてしまう人は、
少なからず負であり苦である部分を背負い込んできているのかもしれない。
 
どちらにしろ、どちらに100%ということもないとは思うけれど、
どちらにしろ、願わくば普通に前者の思いを抱けるような人生を、
歩み続けていられることのほうこそ、
「春の匂い」を楽しめる人生を手に入れる必須となるのかもしれません。
 
最近では、
「春の匂い」よりも、おネエさんがたの人工的香料に、
いろいろな意味で気をつけなければいけなくなったオジさんは、
そのいろいろな意味さえ、たいした意味もないことに気づかされる春を、
恐れにも似た、いや、畏怖ともよばれるような感情で、
立ち向かっていかなければならないようなのでした。