個性という言葉を聞くと吐き気がするようにも思われなくもないようです。
最近ではやたらと個性が重要視されがちであるようにも見受けられますが、もともとに人は十人十色、
誰一人として同じ環境と同じ経験、同じ感性を共有できる人などはいないのだという気もしないでもないのです。
多くの場合、幼少期とか青年期に目立たなく、個性的だとか変わっているとかの批評を浴びることもなく、家族から一歩離れてしまえばその他大勢のなかの一人にすぎないような人生を歩んできた人たちに限って、ムリに個性を打ち出そうとしたり、個性を重視するなどという御託と並べたがる傾向が強くなるようにも思われなくもないのです。
人生において、自分は普通に振舞っているつもりなのに、周囲から「個性的である」だとか「変わっている」などという批評を自然に浴びまくってきた人間にとっては、むしろ個性よりは「その他大勢の中のひとり」のほうがはるかに楽ちんであると感じることがアタリマエであるのかも知れません。
個性を重視ししすぎてしまうと、人は独りよがり、思い込みが過激、自己中心、偏狭に陥ってしまう可能性も大であると言わざるを得ぬようにも思われます。
個性が必要以上に「重要である」と主張すると、人は自分だけが苦しみ、自分だけが悲しみ、自分だけが正しいという錯覚あるいはあ愚考から抜け出すことが困難になってしまうような気もしないでもないのです。
自分はその他大勢の中のひとりに過ぎないのだと自覚することにより、悲しみも喪失も、苦難も痛みも軽減されるようにも思われます。
「絶望的な喪失感のなかにあっても、われわれは人生がつづいていくことを知っている。どんなに大きな喪失に打ちひしがれようと、地上のいたるところであたらしいいのちが生まれている。」
(「ライフ・レッスン」エリザベス・キューブラー・ロス&デーヴィッド・ケスラー)
どんな悲しみのなかにあっても、どんな苦痛あるいは苦悩のさなかにあっても、この世界のどこかで純粋無垢な、なんとも可愛らしい、まるで天使のような赤ちゃんが誕生していると思えば、その絶望的な悲しみや喪失あるいは苦悩や苦痛も軽減されていくようにも思われます。
「苦しみのさなかにあって、喪失が永遠につづくと感じることもあるが、いのちの循環はいたるところでおこなわれている。」
(「ライフ・レッスン」エリザベス・キューブラー・ロス&デーヴィッド・ケスラー)
自分にとっての永遠は全世界全宇宙全素粒子的にはほんの一瞬にしかすぎない。
いのちも、そうでないものも、ありとあらゆるものごとは常に流動または循環を繰り返している。
喜びも悲しみも一泡のしずくに過ぎないのかも知れません。
まさに「うたかた」。
うたかたなのだから、そんなに悲しむ必要も、そんなに苦しむ必要もない。
もっと気楽に、もっと楽ちんに生きていけば、それでよろしいようにも思われます。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、
久しくとどまりたる例えなし。」 (鴨長明/方丈記)
「うたかた」
https://blogs.yahoo.co.jp/shigetage/41616656.html
ルール 3
その他大勢のなかの一人であることを自覚してけっして忘れない。
そうすれば、なにごとも深刻になどなる必要もなくなるし、楽しいとか嬉しいとかのおいしい情動だけを気楽に受け入れられるようになる。