ブルーに魅了される僕のブログ
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未熟、ファッション、古着

前もって言っておくが私はセンスが無い、いつになってもセンスが身につかない。実に嘆かわしいことだ。


ファッション、これは今という時代を生きるにあたってなかなか必要不可欠なものである。

何を隠そう私も服が好きだ。寝ても覚めても暇さえあれば服と好きな子のことばかり考えている。私を構成するものといったら

好きな子を思う気持ち95%、服4%、その他1%といったとこであろうか

それぐらい服が好きである。


そこでこれからは私が買った服でも気が向いた時に記していこうと思う。便宜上、写真を載せていった方がわかりすいしそうしたいのも山々なのだがそれは出来ない。理由は察していただきたい。誰かデジカメをくれ。


早速だがつい先日Pコートとニットを買ったので紹介していきたいと思う。そのときツイードのジャケットも買ったのだが如何せんサイズミスをしたようなので触れないでおこう。私はセンスがないドジでもある。



まずPコートであるが、これは高円寺の古着屋にて60年代の軍卸物を購入した。価格は約13,000円と決して安くなかったが、サイズが34Rとマイサイズに近く状態も所々の虫食いがあるだけでなかなか満足できるものであった。

60年代のPコートの特徴としてポケットの中がコーデュロイであったり、襟が大きかったりとなかなか私の心をくすぐるものがある。実を言うと40年代のPコートを探し求めていたのだが、如何せんマイサイズで状態がいいのとなるとなかなか無い。私は古着を購入するにあたって妥協はしないほうがいいと信条においてるが、時には妥協もいたしかたない。でもやっぱり40年代のPコートも欲しい、誰かくれ。


次にニットであるが、これは柏の古着屋にてプリングルを購入した。色はグレーでSサイズとマイサイズ、そしてなんと言っても2100円という価格に惹かれた。プリングルはmade in スコットランド のブランドで英国王室御用達というのは今更説明する必要も無かろう。このざっくりとして包み込むような質感が実に可愛らしい、意中の子にオーバーサイズで羽織って貰いたいぐらいだ。男子たるものそのような妄想したことは誰にでもあろう。当然だ。


今回の収穫はこんなものであるがボアジャケなるのも欲しい、私にとって古着はロマンである。そう思う。






雨は夜更けすぎに

結局12/25とはなんだったのか


先日、好きな子に連絡をすると当ブログで明言しておきながら未だに連絡をとっていないのは内緒だ。小生はチキンなのだから致し方ない。それにしても何が悲しくて当日、私は六本木に行ったのであろう。何故だ。知らん。


12/25、その日は木枯らしがピューピュー吹いて、我が身はタンポポの綿のように軽やかに未だ知らぬ大地に飛んで行きそうだった。むしろ飛んで行った方が幸せだっただろう、と言う人もいるかも知れぬ。しかし、希望で一杯に胸を膨らますタンポポと違って、私の行き着く先には花を満開に咲かせるアテなんて無い。実に寂しいものである。


その日の六本木は当然のようにカップルで一杯だった。むしろカップルしかいなかったといっても過言では無い。お前らいちゃつくのは構わないが節操をわきまえろ、俺の前でハグするな、せめてベンチに座って御淑やかに小声で愛の睦言を交わすぐらいにしろ!

おっと、何事にも慣用深い私であるが少々熱くなってしまった。情けない。


しかし、イルミネーションは実に綺麗であった。折角画像を撮ったのだから当ブログに載せたいとこであるがそれは断念する。決して機械に疎く載せ方がわからないということではない、画像を載せることで寂しさを強調するからだ。決してやり方がわからないわけではない。

それにしても見事にイルミネーションに感動してしまった私も工場のおっちゃんにカステラを送らなければいけないのだろうか。それはいささか癪であるし、むさ苦しい男からカステラをもらってもおっちゃんは喜ばないだろう。そういうのは独り身でも可憐な10代のうら若き乙女が送ることで初めて意味を成すのだ。故に私はおっちゃんのためを思いカステラを自分で食すことにする。一人で食うカステラは実に美味かろう。


イルミネーションにも飽きた私は歩いて東京タワーに行くことにした。えっ、何故東京タワーに?

そこに東京タワーがあったからだ、それ以外に理由があるものか。

思えば私は東京タワーに行った記憶がない。行ったことあるのにいつの間にか記憶の奥底に追いやってしまったのかもしれぬ。もしそのようであれば私は小さき頃から不遇な思いをしていたのかと鬱になるからやめておきたい。このブログを記しているとネガティブになるばかりである。


そうこうしているうちに私は東京タワーに着いたのだが、そこには”50”と謎の数字がサンサンと光輝いている。


50?


…まさか、今年は東京タワーが建ってちょうど50年ということなのか?そうなのか?

後に知ったことであるがまさしくそれは私の予想通りであった。その時は実にタイミングが良くツいていると心躍ったものだが、よくよく考えると50周年という記念すべきイベント時に一人で来たことほど虚しいものはない。


何故前もって調べて好きな子を誘わなかったのか。他にすべきことがあったのではないのか。



私は思う。私はとんでもなくチキンでもあり、阿呆でもある。







今日はデート!

そんなわけないだろ。


なんでしょう。



12/24、なぜ今日という日はこうも繊細な我々の心の隙間を見つけては一目散に氷柱を刺してわずかながらに残す良心すら奪っていくのか。

敢えて今日が何の日であるかという固有名詞は伏せよう、伏せなくてはいたたまれも無くなる。


12/24、世間的にいうと実に素晴らしい日である。

街中は早漏のごとく11月中からイルミネーションで照らされecoなんてどこふく風。毎晩のように光らされた電球君達もついに明日をもって安住の地をもたらされるだろう。実にめでたい。お疲れ様と彼らに囁くことで我々は満足しよう。


だが、本当に彼らに対して労わなければならないのは我々ではない。カップルと言われる人種だ。彼らが二人でイルミネーションをバックに写真撮影とか現を抜かし、その後もし愛を深め合うものならばそいつらは工場のおっちゃんにまでカステラを提供すべきである。当然だ。


いつの日からであろうか。12/24がカップルのための日となったのは。GHQ、ケルトの信仰。。。

キリスト教徒がそれほど多くない国でこうも今日という日を祝うのは珍しいことのように思える。この際、本来の形を失っていることは日本経済の発展のために目をつぶろう。


しかし、我々のような人々にまで恋人といるのが当然と強要するのはいかがなものか。

おかげさまで年甲斐もなく、好きな子に連絡をとってみたら敢え無く撃沈したのは言うまでもない。今の私の心は日本海溝並みに深い。途中までパソコンを立ち上げては都内のイルミネーションを探してはウキウキ気分になってたのは私がどうしようもない阿呆だからとしか言いようがない。もう一度言おう、阿呆だったったのだ。


明日は25日。

前夜である今日の方が我々にとってはふさわしい敵であったが油断はできない。また私はめげずに好きな子に連絡をとって撃沈するかもしれない。前に進むしかない、時間がないのだ。


ふと思う、私はやっぱり阿呆である。