箱根湯本の駅を降りた時 すでに
登山鉄道・強羅行きは濃霧注意報だった。
一人登山鉄道に乗る。バスで目的地近くまで行くルートも
あるけど、箱根のカーブは必ず車酔いでやられる。
なるべく電車とロープウェィで繋ぎたかった。
登山鉄道で標高が高くなるにつれ、霧がどんどん濃くなる。
大涌谷から桃源台港までのロープウェイに乗る。
霧が濃すぎて、下の景色は何も見えない。
時々、下りのロープウェィとおぼろげにすれ違う。
桃源台港から芦ノ湖の遊覧船に乗る。
霧でもはや「幽霊船」にしか見えない船に乗り込む。
乗っているのは、予定がキャンセル出来ない中国人の団体客達。
独りで乗ってる日本人。珍しがられる。
逆に異邦人になる始末。
元箱根港を降り、そこから先の交通経路は徒歩。
近くのコンビニに入り店員に地図を見せて経路を確認する。
怪訝顔の店員「女性の足だと30分はかかる。この霧だ。
足場も悪い。悪い事は言わない。止めておいた方がいいよ」
私は笑顔でお礼を言いカイロを買う。
コンビニのトイレでペタペタと背中や腰に貼る。
かなり気合いを入れる。
ふんどしをつけた事は無いけど、すでに締め直した気分になる。
霧の中、徒歩で芦ノ湖道路沿いを歩きだす。
湖の片鱗も霧に覆われて見えない。
時々みやげ物屋の看板の文字がここは観光地な事を
教えてくれる。
そういえば、初めてここを訪れた時は抜けるような青空で
水面が反射して眩しかった。
絵ハガキみたいな風景があの時は当たり前だと思っていた。
今は濃霧で何の風景も見せてくれない。
でも逆に幸運だ。だから私は注意深く前に進もうと一歩ずつ
足を踏みしめる。
どうしても 今日 行かなければいけない。
赤い鳥居が杉木立の中、霧の合間に浮かび上がる。
長い長い階段をゆっくり上がる。
もう少し。あともう少し。
寒さで指先の感覚が無い。
霧で湿った髪先から丸いしずくがいくつも落ちる。
吐く息は白い。
心臓はドクドクと波打つ。
鼓動音を確かめながら私は赤い鳥居の前に 立つ。
あの鳥居を超えると あの樹齢杉がある。
震えが止まらない。
20年ぶりに来た私をあの杉は迎えてくれるのだろうか。
霧は途中から一層深くなった。
あの樹齢杉は深い緑苔に覆われて、荘厳なまま変わらず
そこにいた。
15年前、ここに私と彼は立っていた。
誓いの盃と祝詞。
一点の曇りの無い空。記念日のはずだった。
あの日 ささいなケンカをした。見送らなかった。
スクーターのエンジン音 それが 最後の音になった。
あの事故は、彼を帰らない旅人にしてしまった。
樹齢杉の真ん中はポッカリと空洞になっている。
柵を越え、霧に紛れて、その穴に潜り込む。
彼はこの場所が好きだった。
裸足になる。その土苔の感触を確かめる。
しばらく穴の中で樹の内側から流れる水音に耳をあてる。
自分も樹の一部になる。
濃い霧はすっぽりと空洞の中の身を隠す。
走馬燈みたいな15年
ここに来るのが恐かった。事実を認めたくなくて
全てを封印した。
何度も転んだ。失敗して傷だらけになった。
でもようやく、自分の足で立ち、自分で歩く勇気を覚えた。
15年言えずにずっと後悔していた言葉を樹齢杉に
向けて 叫ぶ。
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
きっと、まだ終わらない旅を続けてる彼に届くように繰り返す。
霧にのせて、届けてくれるように願いながら。
樹齢杉の空洞から、微かにあの時のエンジン音が響いた。 \
15年経って やっと 記念日になる。
これからも、時々つまづく。時々 転ぶ。
だけど 手の中に宝がある。
握りしめて 歩き続けることを 私は きっと やめない。



