正直者で不器用で、私ってばかみたいー。
これまでの人生、私はそんな風に思うことが多かった。
正直者で心に嘘がつけなくて人に誤解されることや、もっと大人な対応をしたほうが良かったと思ったことは数知れず。
不器用に関しても、私はこれまでどんなフィールドにおいても初心者から始まっていて一番下手っぴ、どんなときも「できない」ということが前提で始まっているから、まわりに迷惑をかけてしまったこと、自分に失望し尽くしたというもう嫌というほど味わってきた。
でもそんな私が大人になって社会に出ると、まわりは第一印象でそんな風に私を見なかった。
そして実際の私がどうであれ、それどころか正反対のスマートなイメージを重ねられ、ときに強要されることが増えてゆくにつれ、私はその痕跡さえ残さぬまいと心に誓い、無意識のうちに私はまわりに求められるイメージや役柄を演じるようになっていった気がする。
そしてその無意識の選択は当時の自分にとっては、なかなかよい優れたアイディア、かつそれこそが処世術であり、まわりへの思いやりや期待に応えることでもあり、ゆらゆらと頼りない自分を外敵からしっかりと守る盾のようなものだと信じて疑わなかった。
つまりそれは私にとって当時の自分が考えうる、最も優れた素晴らしい選択だったのだ。
でも本来の自分を覆い隠し抑制されることほど、愚かなことはない。
正直なところ、はじめは自分の嫌な自分を全て覆い尽くせた気になって、その隠れ蓑はとても役に立つ道具で、実際悪くはない、と思っていた。
でも時がたつにつれ仕事の領域だけにとどまっていたのが、いつのまにかプライベートにまで侵入し、膨れ上がっていることに自分でも気づかざるを得ないほどになっていた。
アイデンティティクライシスー。
あのころの私はそんな状態に限りなく近かったのだと思う。
そしてそのたびごとに思い出すのが、宝物のような中学校の頃の自分だった。
あの頃の私は「いたずら好きで天真爛漫」を絵にかいたような学生で、呆れるほどに破天荒だったけれど、自分の言いたいことを臆することなく、思い切り自由に表現できて、毎日お腹の底から笑い転げるような日々だったことを、はっきりと記憶している。
「とにかく楽しくてたまらない!」毎日だった。
そんな過去を思い出すたび、私はいつからこうなってしまったのだろう。
どうしたらあの頃の自分を取りも出せるだろう、とひたすらに考え続けてきた。
そしてどうにかして取り戻そう!という計画もひそかに立てて。
そう思い続けてかれこれ10年以上。
私はようやく、あの頃の自分を取り戻しつつある。
あの頃の天真爛漫な自分と、これまですすんで受け入れることのできなかった正直で不器用な私は、全部ありのままの自分。
うそ偽りのない、むきだしの私自身。
たとえそのことから目を逸らしてみても、たとえ隠し通そうと思っても、逃げれてみようと思っても、どこまでも追いかけてくる。
本来の私に戻りたいと切望するように、決してあきらめずに追いかけてくる。
だから、もう逃げも隠れもしない。
でも今の気持ちは、諦めからではなくとても大きな気持ちでそんな自分を歓迎して受け入れているということ。
そんな気持ちになれたことが心から嬉しいし、誇りに思う。
よく人は「ありのままの自分で生きればいい」というけれど、そんなの全部きれいごと、ってずっと思っていた。でもそのありのままが、本当はどういうことなのか気が遠くなるほどに遠回りをしてもがいてき続けてきたからこそ、今見えている世界がある。
そして私は正直で不器用で、どんくさくて。。
だからこそ「いつも美しくありたい」と心から願っている。
そして私が思う美しさとは、究極の自然体だ。
それは本来ないものを付け加えたり、気に入らない部分を削ぎ落とすというものではなく、本当に自分自身として持って生まれたものを尊重し、それを大切に磨いていくということ。
感情であれば、明るい面だけが素晴らしいわけではないように、悲しみも苦しみも同様に素晴らしく、また美しい。
そしてそんな感情でさえ表現できることも美しい。
外見であれば、自分のコンプレックスも好きな部分も全部まるごと受け入れて、自分という個性を大切にして発揮すること。
人間だから、光もあれば闇があるのは当然。
それら全てを受け入れた上で本能や動物的な勘を可能な限り発動させて、自然の流れとダンスするように、的確なリズムを刻みながら生きていきたい。
本当に美味しい野菜をつくっている人たちが、野菜に手を加えるのではなく、土づくりにこそ徹底してこだわるように、そういうところを私は大切にしていきたいと思うのだ。
ダメな自分も全部受け止めて、そこからまた新たに進もうと思えたとき、きっと信じられないほど視界が広がっているはず。
人の一生は宇宙の壮大さを前にして、呆気ないほどに儚い。
だからこそ一瞬一瞬に自分の思いを刻印して、自分らしく生きていくことに価値がある。
根源的な哀しみを手放し、とらわれの身から解放されること。
人生のエンドロールまで、哀しみや痛みを持ち越す必要も理由はどこにもない。
心に負った傷は、やがて癒えるだろう。
決して諦めることがなければ。
自分の心のままに生きていく。
今の私には、私の目にはキラキラとまぶしく輝いている。