(なんか良いタイトルが
思い浮かばなかった)
昨日訪れた陣跡の山内一豊さんは
内助の功ばかりが話題になりますが
関ケ原の戦い後には
初代土佐藩主までになっていますね
家康が最初に陣を置いた桃配山より
少し東寄りの場所に一豊の陣があり
南宮山からの攻撃を守っていたそうです
笹尾山は少し遠いですが
看板に記載あるように
南宮山からの攻撃は無く
家康について陣を移して戦っています

「かずとよ」ではなく「かつとよ」なんですね
山内一豊さんについては
湖北あたりに
ちらほら関係する史跡があります
長浜駅から西へ少し行ったところに
屋敷跡の石碑が建っています
たまに通る時
なんか変な所に何の石碑が
と思っていたら後になって知りました
以前は道路がこんなじゃなかった?
記憶があまりないけど
下の写真の赤丸のところには
夫婦の像と説明の碑があります
秀吉の家臣だったので
長浜に屋敷を構えたようです
のちに長浜城主にもなっていますね
↓Google mapより
随分前に
岐阜県の郡上八幡へ行った時
八幡城のふもとの城山公園に
一豊と千代の像があって
一豊は八幡城主になったことがあるの?
と思ったら
千代さんの出生地とのことでした
城主の娘だったそうで
でも?米原市にも出生地が?
武将ですら
出生地の言い伝えがいくつかあるので
当時の女性の出自などは
ますます曖昧なんでしょうが
どちらも文献を元にしているみたいです
長浜市木之本には
馬宿平四郎という
千代さんが用立てたお金で
馬を買ったとされる場所があります
千代さんの内助の功も
あったと思いますが
若い頃から苦労をし
多くの城主に仕え
少しずつ地位を固めていき
そして小山評定で家康に認められて
一気に
土佐藩主にまで上り詰めた印象があります
おまけのまりさん
今日はちょっとぬくぬくお日さまで
なんか眠たそうなまりさん