第3回 お隣の垂井町と毛利秀元




古戦場記念館で見て気になったのは

あまり記念館の内容なので

詳しくは書けないのですが



関ヶ原町の東隣の垂井町に位置する

南宮山周辺にいる

毛利秀元を始めとする西軍勢

また

家康の陣のはるか後ろにいて

南宮山を警戒していた

東軍の浅野長政や池田輝政あたりの

影が薄いんですけどガーン




簡単な地図を載せると

現在の垂井町は細い赤線で囲まれた町ですが

(菩提山は竹中半兵衛の居城があった場所です)



関ケ原町にある記念館だし

それに

南宮山の面々はさしたる働きもなく

戦は終わってしまいましたがアセアセ



逆に毛利秀元らが動かなかったことは

関ヶ原の戦いにとって

特に西軍にとって

重要な意味があるはずで



垂井町は


こういうパンフレット作って

決戦を左右した南宮山

ということを主張しています



西軍の総大将は毛利輝元で

輝元は大坂城を守っていたものの

その一族である毛利秀元が

何故関ヶ原の戦の中心より離れた

しかも南宮山の高いところに

陣を置いていたのか


東軍に内通していた吉川広家が

秀元さんの出陣を

押しとどめた事になっていますが

あんな山の中では

弁当だのなんだのの以前に

はなっから出陣する気なんか無かったのでは

と素人考えですがいつも思います



西軍がまだ大垣城にいる頃から

毛利勢は南宮山にいたようで

家康軍が最初に桃配山に陣を置いた時

明らかに西軍が

東軍を挟み撃ちにできる布陣が出来たのに

いくら吉川さんが

家康と密約をかわしていたとはいえ

その気になったら

どうでも兵を動かせたように思えるのだけど

実際は秀元さんだけでなく

ふもとの安国寺恵瓊、長束正家、

長宗我部盛親も全く動くことなく

戦さは終わりました




三成陣跡の笹尾山あたりに

犬まりさん連れて遊びに行くと

東南の方に南宮山が

西南の方に松尾山が見えています

三成さんの

小早川も毛利も何故動かないムカムカムカムカ

という怒りの気持ちを実感することができます





犬犬犬犬犬犬犬犬犬



おまけの犬まりさん



なんだか

思い悩んでいるようなまりさん