景数 | 79景 |
題名 | 芝神明増上寺 |
改印 | 安政5年7月 |
落款 | 廣重畫 |
描かれた日(推定) | 安政4年秋 |
![$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-芝神明増上寺](https://stat.ameba.jp/user_images/20130504/22/cofdm/dd/ed/j/t02200333_0248037512525697831.jpg?caw=800)
78景に続いて題字が「江戸百景余興」となっていて、「名所江戸百景」とは区別されている。78景で述べたように、シリーズ112枚目となるこの絵は、余興として描いたと思われる。ただ78景「鉄砲洲築地門跡」のように明らかに架空というところはなく、どこが余興に当たるのか分からない。
絵に描かれているものを1つずつ解説してみよう。
中央の通りには、僧侶の集団と、いかにもおのぼりさんと思われる集団が描かれている。東海道から江戸に向かう途中、品川を過ぎると幾つかの寺院がありそれなりに大きい建物であるが、増上寺は将軍家の菩提寺ということもあり、大伽藍で別格である。そのスケールの大きさに驚いたことだろう。僧侶の集団の口元が笑っているように見えるが、おのぼりさんの集団を笑っているのかもしれない。
中央通りの右側にある松並木は、どこかの名木を移植して植えたのだが、とこから取り寄せたのか誰が植えたのか失念してしまった。
左奥に見える赤い門は、増上寺の大門(だいもん)である。わざわざ振り仮名をつけたのは、吉原の大門(おおもん)と同じ字で読みかたが違うため。
大門の右側には下馬札、大門の前に橋が見えるが、下を流れるのは桜川で、112景「愛宕下藪小路」で見られる川と同じで、溜池から金杉川まで流れている。大門の右に屋根がたくさんあるのは、増上寺の子院である。
その後ろの屋根が2つ重なって見えるが、手前は三解脱門(三門)で、安政地震、関東大震災、戦災を乗り越えて現存している。重要文化財。その後ろが本堂であった。その後ろの森は、現在の東京タワーがある岡である。
明治に入りこの辺りが、前方後円墳の芝丸山遺跡であることがわかったが、この絵が描かれた時にはまだ知られていない。
増上寺は、浄土宗・三緑山。徳川宗家菩提所。空海の弟子空叡によって麹町で真言宗光明寺として創建された。その後酉誉(ゆうよ)上人が浄土宗に改め明徳四年(1393年)この地に移った。家康入国のとき避暑でたまたま立ち寄ったこの寺の住職の接待に感激し、菩提寺とし、6人の将軍がこの地で眠ります。
通りの右側の塀の向こう側に描かれているのが飯倉神明宮。屋根に大きな千木があることで目立つ建物で、これらの様子を描いた浮世絵を広重は描いている。
飯倉神明宮は、寛弘二年(1005年)九月伊勢の皇大神宮を迎えたのが始まりで長い歴史を持つ。北条氏支配の間は荒廃したが、徳川家が江戸に入り飯倉の地から浜松町に移り、その後江戸の伊勢信仰の普及によって繁栄した。
飯倉神明宮で特に有名なのは、9月11日から11日間行われる「だらだら祭」。また歌舞伎の題材となった「め組のけんか」が起こったことで有名。
最後にこの絵が描かれた日の推測であるが、今回はまったく手掛かりがない。この辺りの地震被害や、安政3年8月の台風の被害も認められず、復興とは無縁である。描かれている人の服装は厚着で、改印の前年の秋を描いたと思われる。
改印が7月であることから絵の売り出しは9月ころを目標としているため、おそらく広重は、だらだら祭のころ売りだされるように余興として、軽いノリでこの地を描いたのではないか。
この記事で参考にした本
広重 名所江戸百景
新収日本地震史料〈第5巻 別巻2〉安政二年十月二日 (1985年)
実録・大江戸壊滅の日 (1982年)
江戸東京 はやり信仰事典
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