63景 綾瀬川鐘か淵 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  63景 
 題名  綾瀬川鐘か淵
 改印  安政4年7月 
 落款  廣重筆 
 描かれた日(推定)  安政4年閏5月25か26日ころ 

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-綾瀬川鐘か淵


 鐘ヶ淵は隅田川と綾瀬川が分岐する三俣のところの地名で、現在は東武伊勢崎線の駅名に残るだけになってしまった。現在は化粧品の会社になったカネボウは鐘淵紡績の略で、かつてはこの地にあり繁栄を極めた。
 絵の中の中央に見えるのが綾瀬橋で、ここが隅田川と綾瀬川の分岐の地点である。この辺りの川幅およそ12間。水路が複雑であることから、まるで糸を綾どるようだということで綾瀬川と名付けられたという。
 絵の手前の岸は、現在の南千住8丁目にあたるが、汐入と呼ばれ水害が多い地点でもある。江戸を水害から守るため、日本堤から北側は隅田川が増水したときは水没させる地域である。しかし小高くしたところを造って水が引く数日を過ごせるようにした場所がこの辺りに造られた。これを水塚という。また総泉寺から千住大橋まで「塩入土手」があるが、名前からして洪水を防ぐためではなく洪水時に避難路として高台を築いたものと想定される。剣客商売の彦次郎が住んでいる「塩入土手」については、江戸の文献を発見できず長らく疑問であったが、意外にも「江戸の野菜」という洪水とは関係ないような題名の本に記述があり少しわかってきた。

 鐘ヶ淵には沈鐘伝説というのがある。この周辺で諸説あり場所もはっきりしないが、いずれも運搬中に釣鐘を川に落としてしまったとのことで、それが地名の由来になった。
 鐘ヶ淵は江戸のはずれで名所と呼ぶのはどうかとおもう場所だが、唯一目を引くのが絵に描かれているネムノキである。ネムノキは夜になると葉が閉じてしまうことから「眠る」から名づけられたようだ。本来は、綾瀬川のある隅田川西岸にあるものだが、広重はデフォルメして東岸に持ってきて描いている。

 ところでこの場所は江戸名所花暦でも描かれている。江戸名所花暦は文化3年(1827年)刊行で、著者は岡山鳥、挿絵は江戸名所図会でおなじみの長谷川雪旦である。筑波山を背景にして、三俣の水路が複雑なところもうまく表現できており、なかなかの作品である。
 広重は江戸名所図会と同一構図の絵を何枚か描いているが、同じ長谷川雪旦の絵であっても百景よりも30年くらい前の作品であるため、この絵の存在を知らなかったのだろうか、参考にした形跡はない。

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-江戸名所花暦綾瀬川合歓木花
江戸名所花暦 綾瀬川合歓木花


 最後にこの絵が描かれた日の推測をいつものようにしてみよう。さしあたり日にちを特定できるものもなく、ただの田舎の風景に見えてしまい、正直推測は苦しい。ただ広重は過去の作品にも鐘ヶ淵を描いたものがなく、絵を描く直前にこの地を訪れて描いた可能性がある。
 唯一の手掛かりはネム花が咲いていることで、江戸の日暦(下)には、ネムの花はが咲くのは、小暑のころとある。改印のある安政4年の小暑を調べてみると、閏5月16日になり、新暦の7月7日となる。
 例によって斎藤月岑日記で天気を調べてみると、小暑のあたりはまだ梅雨だったようで雨の日が多く、梅雨が明けたのは6月11日と思われる。それまで花が続くと思えないので、梅雨の合間の一日だとすると、晴れたのは閏5月25、26日だけである。天気から予測するとこの日に描いたのだろう。


参考文献
江戸名所花暦
江戸の日暦〈下〉 (1977年) (有楽選書〈15〉)
和洋暦換算事典
江戸の野菜―消えた三河島菜を求めて


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