みなさんいかがお過ごしでしょうか、新奏法『ツーフィンガー』生みの親ドラムのきっくです( ´_ゝ`)



渋谷から下北沢へ、少し地域が違うだけでも、行き交う人の空気感が違うのは、見ている目が違うのかはたまた、そうでないのか、その場その土地に見合った風貌になってゆく、まさに郷に入れば郷に従え、鬼に金棒、ムッシュには業、業を背負ってなんぼ、OMIAIで業を背負った女と一緒になれよ、ドラムのきっくです( ´_ゝ`)




帰ってきた、







キンタ・クンテ









誰かが言った。
音楽は万里を越えると。




誰かが言った。
人類に隔たりはないと。



そして、
誰かが言った。


キンタは、クンテである。と。




音楽は文化である。
音楽は生活である。
音楽は生き方である。
音楽は全てである。


だとするなら、どうだろうか。



音楽が全てであると言うのならば、懲悪は贖罪であり、政治は化学であり、恋愛はロジカルである、と言えるだろう。


言えるはずだ。


だってそうだろう、

音楽は全てなのだと言うのなら、
全ては、それ以外の全てである、と言えるのだから。


だとしたら、どうだろうか。



キンタは、クンテと言えるのではないだろうか。




言えるはずだ。



だって変じゃない。



全ては、それ以外の全てなのに、



キンタはクンテじゃない、なんてさ。



おかしいじゃない。



そうでしょ?



仮にね、もし、そうじゃない、としたらね、納豆には付属のタレなんてかけません!付属のものなんて悪だ!アレンジが偉いんだ!偉いんだ!って言ってるのと同じってことじゃない?


だってそうじゃない。


そんなエセ納豆好きとは仲良くなれません。




納豆はどうやってもうまいじゃない。


そう、まさに神じゃないの。


納豆は、神なのだ。



ならばどうだ。



キンタが、クンテじゃない、なんて、果たして言えるだろうか?



いや言えない。



言えるはずがない。


言える資格がない。




キンタは、クンテだ。


ならばTEDANUFAのナオキは、一体なんなんだ。


彼はそもそも人間なのか?


いや、その問いこそが誤りだ。


『すべて』は『それ以外すべて』と同じなのだから。


ナオキは人間であり、音楽であり、琉球バカヤローであり、キンタクンテでもある。



そう、




ナオキは、キンタクンテなのだ。



そうだ。


そうだったんだ。



だからか。


だからあんな変なのか。




いや、変なんて言葉も無いのかもしれない。


全てが全てなのだから。



そういえば沖縄ネームは、宮里キンタ、とか言ってたっけ。


そうだ。

ナオキはキンタクンテだ。


キンタクンテ本人に間違いない。



そうじゃないなんてことがあるか?



いや無い。




でも、万が一そうじゃなかったら、、、?なんてことが、あるだろうか?



いや、無い。