芹 沢 鴨 せり ざわ かも

1832 (30・ 27)

粛正された豪傑肌の筆頭局長:水戸出身の尊攘激派。神道無念流 免許皆伝。豪傑肌で、創設期に筆頭局長を務めるが、酒宴のあ と、屯所としていた壬生郷士八木邸で就寝中、一派の平山五郎と ともに、近藤一派によって暗殺・排斥される。暗殺は大和屋焼き 討ち等の粗暴行為に業を煮やした会津藩主の内命との説もある。 享年32(34、37)歳。

近 藤 勇 こん どう いさ み

1834

尊王攘夷の志を持った佐幕武装集団首領:局長→総長。天領武州 多摩の豪農出身で佐幕派。天然理心流試衛館道場主。芹沢派排斥 後、新選組の実権を握り、専横を批判されながらも粛正を繰り返 して権力を維持。尊王攘夷の志を持つが、現実路線として隊を幕 府の治安部隊に導く。鳥羽伏見の幕軍敗退により江戸帰還後、甲 州勝沼の戦いで敗走。流山で新政府軍に包囲され投降。謝罪を拒 否し、板橋で刑死。享年35歳。

新 見 錦 しん みに しき

1836

詰め腹を斬らされた芦沢の右腕:局長or副長。水戸出身で尊攘激 派。神道無念流免許皆伝。初期に芹沢・近藤とともに局長、また 山南・土方とともに副長を務めたが、芹沢一派排斥の一環とし て、芹沢暗殺数日前に詰め腹を斬らされるという。初期の幹部・ 田中伊織と同一人物だもといわれている。享年28歳。

山 南 敬 介 さん なん けい すけ

1836 (33)

謎の切腹死を遂げた副長:奥州仙台藩脱藩。小野派一刀流/北辰 一刀流免許皆伝。近藤と勝負をして負け、天然理心流を学ぶため に試衛館道場に入門したという。近藤と共に上洛し、副長を務め るが、近藤・土方との対立を次第に深めた。上洛から2年後、近 藤の下命により、切腹死。介錯は山南を慕っていたと伝わる沖 田。切腹の真相はいまだに謎である。フィクションでは脱走説が ポピュラーだが史料的根拠は薄く、定説ではない。享年30(33) 歳。あっさりした性格の愛敬のある人物だったと伝わる。


土 方 歳 三 ひじ かた とし ぞう

1835

五稜郭で戦死した副長:天領武州多摩の豪農出身で佐幕派。天然 理心流目録。近藤の幼馴染。武士になりたいと願っていた。新選 組では副長を務めるが、局長近藤不在のときも切腹が何度か行わ れたことから、後世、鬼との呼び名がついた(いうまでもない が、近藤のために心を鬼にして修羅になったというのは史料の根 拠なし)。鳥羽伏見後、転戦を続けて函館まで行き、五稜郭政府 陸軍奉行並に選ばれる。五稜郭降伏直前に戦死。享年35歳。小柄 で役者のような美男だったと伝わる。


沖 田 総 司 おき たそ うじ

1842 (44)

暗殺剣に使われた天才剣士:副長助勤/一番隊組長。奥州白河藩 脱藩。天然理心流免許皆伝。少年期に試衛館道場に内弟子として 入門。剣の天才といわれる。新選組においては近藤の腹心・粛正 者として恐れられる。「残酷」との評がある一方で、冗談好きな 明るい性格であったと伝わる不思議な若者。鳥羽伏見の戦い前に 病に倒れて一線を退く。江戸帰還後、潜伏先の植木屋で病死。享 年27(25)歳。

平 山 五 郎 ひら やま ごろ う

1829

暗殺された隻眼剣士:副長助勤。播州姫路出身で、芹沢派。神道 無念流免許皆伝。花火の爆発で左目を失明していたが、左側から 剣で打ち込まれても必ず返したとという。芹沢と共に上洛して、 新選組幹部となるが、近藤一派によって芹沢と共に暗殺される。 享年35歳。

野 口 健 司 のぐ ちけ んじ

1843

芹沢派の最年少幹部:副長助勤。水戸出身で芹沢一派の最年少。 神道無念流目録。芹沢暗殺事件の際には屯所におらず無事だっ た。事件後も隊に残留していたが、芹沢暗殺の約2ヵ月後、屯所 で切腹死する(原田左之助による殺害説あり)。切腹理由は不 明。彼の死により、芹沢派は壊滅した。享年21歳。

永 倉 新 八 なが くら しん ぱち

1839

近藤と一線を画した江戸っ子幹部:副長助勤/二番隊組長。松前 藩脱藩。神道無念流免許皆伝。近藤らと上洛し、新選組幹部とな るが、常に近藤とは一線を画した。池田屋事件後の近藤の専制ぶ りに隊分裂の危機を感じ、原田・斎藤らと近藤批判の上書を会津 藩主松平容保に提出したという。容保の仲介で和解はするが、そ の後も近藤との溝は埋まらず、甲州勝沼敗走後、隊の再建をめ ぐって再び対立。同志を「家来」呼ばわりする近藤とついに袂を 分かったようだ(新選組瓦解)。その後、靖共隊を結成し、旧幕 軍として東北を転戦する。明治以後は新選組慰霊碑を建立し、新 選組時代の手記等を残すなど、新選組の名誉回復につとめた。享 年77歳。江戸前の性格だったと伝わる。

井 上 源 三 郎 いの うえ げん ざぶ ろう

1829

近藤に忠実な同流幹部:副長助勤/六番隊組長。天領武州多摩の 八王子同心の三男。天然理心流免許皆伝。近藤らと共に上洛し、 副長助勤等幹部に名を連ねたが、近藤と同党なので幹部になった だけで「文武共劣等の人」という元隊士証言がある。鳥羽伏見の 戦いで銃弾を受けて死亡。首と刀は共に参戦した甥によってある 寺の門前に埋められたという。享年40歳。

平 間 重 助 ひら ま じゅ うす け

1824

暗殺を逃げのびた芹沢派幹部:副長助勤。水戸出身で芹沢派。神 道無念流目録で芹沢の弟子と伝わる。芹沢と共に上京し、勘定方 を務めた。芹沢と平山が暗殺されたときは別間で就寝しており、 命を拾ったが、すぐに脱走。その後の消息は不明だが、明治以 後、岩手県で農蚕巡回教師を務めていたともいう。

藤 堂 平 助 とう どう へい すけ

1844

信条を貫いた「魁先生」:副長助勤/八番隊組長。江戸出身。北 辰一刀流目録。伊東甲子太郎の門弟。近藤らと上洛し、斎藤と並 んで新選組最年少幹部となる。近藤の「四天王」に数えられ、常 に先陣を斬って闘いに臨むことから「魁先生」とも称されたが、 佐幕傾向を強める隊に危機感を覚え、新選組を本来の尊皇攘夷集 団に戻すため尊皇活動家伊東に加盟を懇願したという。新選組幕 臣取立ての内定を機に、孝明天皇の御陵衛士として伊東らととも に隊を分離。尊皇活動に専念する。しかし、油小路で新選組に暗 殺された伊東の遺骸を引き取りに行き、待ち伏せの新選組に包囲 されて討死(遺骸は残党をおびきよせるおとりとして数日間放置 されたのち、新選組の手によって光縁寺に埋葬される。鳥羽伏見 で新選組敗走後、遺骸は同志の手で戒光寺に改葬)。享年24歳。 藤堂和泉守のご落胤で、美男だったとも伝わる。

原 田 左 之 助 はら だ さの すけ

1840

切腹傷の暴れん坊:副長助勤/十番隊組長。伊予松山藩の中間・ 若党出身。宝蔵院流の槍を使った。谷三十郎(後述)の弟子とも いう。実際の戦闘では槍だけでなく、剣も使った。近藤らととも に上洛し、新選組幹部となる。永倉の近藤批判に同調し、新選組 瓦解後も永倉と行動を共にする。靖共隊結成後、用があって江戸 に戻るが、警戒が厳しくて再合流できず、江戸に留まり彰義隊に 参加。上野戦争の戦傷がもとで死亡。京都時代に所帯をもってお り、妻子懐かしさに戻ったともいう(生き延びて満州で馬賊の頭 領になったという話もある)。享年29歳。きかんきで放胆な美男 だったと伝わる。

斎 藤 一 さい とう はじ め

1844

謎多き最年少幹部:副長助勤/三番隊組長。御家人の次男。剣の 達人という。人を斬って江戸を脱出。京都の道場に身を寄せる が、浪士残留を知り参加したという。すぐに幹部となる。永倉の 近藤批判に同調する。その後は、尊王派の伊東甲子太郎(後述) に接近し、彼が御陵衛士として新選組を分離する際に同行する が、実は間者として潜入していたのだともいう。新選組瓦解後、 甲州勝沼の戦における負傷兵を率いて会津に向かった。その後、 会津新選組の隊長を務める。会津落城間近になり会津を脱出する 土方と対立し、隊士数十名とともに残留。会津降伏後は藩士と共 に斗南に配流され、その後は旧会津藩士として生きる。明治に なって警視局に奉職。西南の役に出征し、薩摩兵と戦った。享年 71歳。


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