さて、今回は「セレナーデ―愛しのアンブレラ」のお話に移ります。
おそらく、結構短めです。
実は、ネットのどこかを彷徨っていた時に発見したのですが、今井さんはこの曲を「大事な人がいなくなってしまった歌」だとおっしゃっていた…んですか?
その文を見なければ、先日の「アンブレラ」の話が思いつかなかったわけなのですが。
感想文を読んでもらえれば分かるとは思うのですが、前提として、私は「人」編と「蝙蝠と傘」編両方書いています。
しかし、そのどれもが、「会えない」という言葉で終わっているんですね。
ちょっと引用します。
 現実はアンブレラ子は雨の日にしか姿を見せる事が出来ず、蝙蝠くんは夜行性だから夜にしか現れる事が出来ない。
 なかなか会えない。それは悲しい。
 アンブレラ子、泣いちゃう。
 蝙蝠くん、ムードを盛り上げる為に「きれいな雨だね」と言う。
 しかも、アンブレラ子が求める太陽は、蝙蝠くんにとってのアンブレラ子と同じ。
 つまり、
  あなたはBaby私の太陽
 と慰める。
 でも、アンブレラ子は泣きやまない。
 だから、蝙蝠くんは「夢で逢えるさ」と言う。
なんという…あっけらかんな。


では、前回の「アンブレラ」の続きから参りますよ。
アンブレラ」の「一瞬だろ?」が「セレナーデ―愛しのアンブレラ」で言うところの「通り雨」「過ぎる刹那のonly you」かな?で話は終わってましたね。
なんで共通するかというと、地球上のすべての存在は、「太陽」や「銀河」の中では「一瞬」の存在だからかな?と。
「出会い」と「別れ」も、「生」と「死」も。
アンブレラ」の「蝙蝠」は、「アンブレラ」に向かって「一瞬だろ?」と聞いています。
その「一瞬」とは、「蝙蝠」と「アンブレラ」の出会いと別れであり、お互いが離ればなれでいる間の事なのではないかと。
その答えが、「セレナーデ―愛しのアンブレラ」に出て来る、
 夢で逢えるさ
という詞ではないでしょうか。

それぞれの歌詞の視点の話をしましょう。
アンブレラ」は、物語の語り手である第三者と、太陽に向かって飛ぶ「蝙蝠」の視点が交互に出て来ます。
セレナーデ―愛しのアンブレラ」では、全て「私」という一人称で書かれています。
この二曲が「対」である事。
セレナーデ―愛しのアンブレラ」の歌詞に、「愛しの君アンブレラ」「私が咬んで」という言葉が出て来る事。
それらの理由から、「セレナーデ―愛しのアンブレラ」の「私」は、「蝙蝠」でございます。
何が言いたいかと言いますと、「アンブレラ」で「太陽」に向かって飛んでいる「蝙蝠」のその時の心情や思い出の中身が「セレナーデ―愛しのアンブレラ」ではないかという事です。
セレナーデ―愛しのアンブレラ」のBメロの話をします。「例えば」の部分の話。
 例えば 私 毒持つ産毛の虫になったら
 例えば あなた 闇に魅入られ迷っていたら
何か、気付く事はありませんか?
「私」は「虫になったら」。
「あなた」は「闇に魅入られていたら」。
「あなた」は「あなた」のままでの例え話なのに、「私」は何故か「虫になったら」という、己を変質させる例え話になっているんです。
なんと言いますか。「私」は生まれ変わりの話をしているみたいに感じます。


で、今井さんがインタビューでいったらしい「大事な人がいなくなった」というこの話。
「蝙蝠」が無謀にも己の命を投げて「太陽」に向かって飛んでいったのは、「アンブレラ」に二度と会えないから飛んだのかもしれません。
もしかしたら、「アンブレラ」は通り過ぎて行っただけで、「蝙蝠」と共にいた時間なんてなかったかもしれません。
それでも、「蝙蝠」は飛んでいくんですね。
 夢で逢えるさ
という、約束を残して。

以上でございます。
異論、すごく受け付けます。