宇髄天元 忍にまつわるあれやこれ | 徒然探訪録

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宇髄天元 忍にまつわるあれやこれ

■伊賀と甲賀

忍の中でも特に有名なのが、三重県の伊賀、滋賀県の甲賀です。

伊賀の忍は、傭兵のような働き方をしており、依頼者とは契約によるドライな主従関係で、複数の敵対する相手と契約を結ぶこともあったため、時には伊賀者同士戦うこともありました。また、服部・百地・藤林の上忍三家により非常に上下関係に厳しい統率がなされており、忍を辞めて里を出る抜け忍も厳しく取り締まられていました。伊賀の忍は火遁の術等、火薬を使う術が得意で、火矢やのろしをよく扱い、催眠術や手品、九字護身法を扱ったと言います。家庭環境や火薬を使った攻撃等の描写から天元の実家は伊賀の流れの家系だったのかもしれませんね。

一方、甲賀の忍は一人の主君に仕え、惣という共同体に属し、合議制を取っており、忍同士の関係はフラットなものでした。甲賀忍者は薬やお守りを売る行商人として諸国に散らばり、諜報活動を行っていたと言います。甲賀者は医療や薬に精通していたため、毒薬を使った術や手妻という人心蠱惑術を得意としていたようです。

■鉄砲組百人隊

徳川家康が江戸を治めていた頃、江戸城落城の際には、内藤新宿から甲州街道を通り、八王子から甲斐の甲府城に逃れるという構想を持っていました。鉄砲百人組はその際動員されるべく編成された鉄砲隊で、伊賀組、甲賀組、根来組、二十五騎組からなり、伊賀組は大久保、甲賀組は青山、根来組は市谷、二十五騎組は内藤新宿に組屋敷を構えていたといいます。各組100人ずつの足軽鉄砲隊で、伊賀、甲賀、根来といった火器銃器の扱いに長けたものが召し抱えられており、高い火力を有した独立部隊として編成されていたのです。鉄砲隊百人組の任務は江戸城大手三之門の警備と将軍の寛永寺・増上寺・日光東照宮参詣の護衛で、伊賀組、甲賀組、根来組、二十五騎組が交代で勤め、警護にあたりました。彼らが詰めていた番所は、現在でも皇居東御苑に百人番所として残されており、新宿区登録無形民俗文化財として江戸幕府鉄砲組百人隊行列(出陣の儀)が行われています。新宿区百人町の名はこの鉄砲百人組伊賀組の組屋敷があったことに由来し、百人町には皆中稲荷神社という鉄砲隊百人組に所縁のある神社が残っています。鉄砲隊百人組の与力の一人が精進しているのにも関わらず、射撃の腕が中々上達しないことに悩んでいたところ、夢枕に稲荷之大神が立ち、霊符を授けられ、翌朝から射撃は百発百中全て的中するようになりました。それを聞いた他の隊士たちも競って霊符を授かり、皆百発百中的中するようになったと言います。それからこの稲荷神社は皆中(みなあたる)の稲荷と称えられるようになり、今でも宝くじや賭け事をはじめとするあらゆる勝運的中祈願の参拝者が訪れています。

■大久保百人町のつつじ

江戸時代平和な時代が続くと、戦で勲功をあげることも出来なくなり、収入がなくなって困窮した百人隊の隊士たちは副業としてつつじの栽培を始めました。江戸染井の植木商、霧島屋三代目伊藤伊平三之丞がつつじの普及に大きな影響を与え、染井界隈はつつじの名所として見物客で賑わっていたため、鉄砲隊隊士たちはこのつつじ人気にあやかろうと江戸キリシマと呼ばれるキリシマツツジの栽培に着手したのです。鉄砲隊には仕事柄木炭・硫黄・石灰などの火薬の材料が豊富にあり、これらの火薬の材料がつつじの肥料として活用されました。百人町のつつじの名所としての発展は幕末に全盛期を迎えたと言います。明治時代末期まで百人町のつつじは長い繁栄を続け、明治から大正にかけても江戸キリシマの苗木は盛んに生産されており、歴史ある江戸の伝統園芸といえるでしょう。